文化のセックスに切り捨てられる人たち

最近ある本に出会ったことで、自殺についてさらに自分の知見が深まったような気がするので、今回はそれを書きます。どのような話かと言うと、自殺の犯人は誰なのかということについて、今までより具体的に言語化できるようになったかもしれない、という話。


今までも、自殺に関して多くの記事を書いてきました。自分が冷静で落ち着いているときほど理論的に書くことができましたが、ほぼ鬱のような状態で書いた文章はいつ見返してもめちゃくちゃです。今回は自殺の犯人は文明なのではないかという話をするので、それに関係しそうな過去の自分の記事をピックアップしておきます。


まず、このブログを過去から知ってくださっている方にはくどい説明になりますが、自分の考え方は「自殺を本人の責任に問わない」というスタンスであることを予め断っておきます。自殺をすることは愚かだと言う人がいますが、僕はこの発言にあまりメリットがあるとは考えていません。その事については過去に一通り書いたので以下の記事を参考にしてください。

www.mattsun.work


ただ、自己責任論に問わないという姿勢を見せるにしても、それだけだと今後の進展は見込めません。なぜかと言うと、「本人が悪くないというのなら、いったい誰(もしくは何)が悪いのだ」という反発的な疑問が出てくるのは至極当然でしょう。本人が悪くないのなら他に責任の所在を明らかにしない限り自殺問題の解決は見込めません。


それに関して、過去に一番スポットを当てて触れたのは、きっとこの記事でしょう。

www.mattsun.work


大体半年ほど前に書いたものですが、今見返すと、そのほとんどが感情論と言わざるを得ません。要約すると「相対的に見られるのが苦しいんだ!」としか言えていない記事ですね。これを読むと分かるのは、僕が自殺の犯人ではないかと思っているのは、人が集まることで形成される社会であるということ。僕自身、社会学研究室でずっと自殺を研究してきたのでこのような考え方に染まるのは至極当然かもしれませんが、やはり自殺の犯人が人だとはどうしても思えないわけです。いじめ自殺なんかであればその犯人はいじめるような奴らだと思われるかもしれませんが、しかしそのいじめる側にも、多数側に所属しその権威を維持することで(教室などの)社会に溶け込みたいという欲望があり、その欲望を生み出すのは「多数につくが吉」というこの国に事前から与えられている価値観であるという側面は否めません。


さて、ここまで自分の考えを一度振り返っておいたうえで、今回触れたいと思うのは、どうしてその社会に人々は魂を売れるのかという観点です。人々は価値観や他人のために死を選択できる唯一の生き物です。しかしこれは明らかにおかしいはずです。だって、最も長く強く生きられるようにプログラミングされた生物が自ら自分の命を絶つことを選択できてしまっているので。


どこから人間という生き物は狂ったのだろう、ということが自分の中でも疑問でした。今回は、それについて少し答えが出せたよ、という話です。

言語の習得


人間が狂ったのはきっとここでしょう。人類史などに詳しい知識がないのでもし間違ったことが書かれていましたら指摘をください。


人間とそれ以外の生き物の違いの一つに言語を使えるかどうかというものがあります。そしてこの言語の役割は、「ヒト意識の統制」という面にあるでしょう。今まで本能でしか捉えていなかった事象に名前がつくことで、抽象的ではあれどそれに対する理解を同種同士で共有できるようになったわけです。


理論だけで詰めていくと分かりにくいので、具体的な話も付け加えながら話します。


例えば二人のオスと一人のメスがいた際に、交尾を迫るオス側はメスの取り合いで争い合います。原因はもちろん、性欲という原始的な欲求が存在することと、争わずに他のメスを探すというような道徳的視点の不在です。これが激化すれば、もしかしたら殺し合いになるかもしれませんが、しかし言語を習得すれば話は別です。今まで本能でしか捉えていなかった感覚に対し、「争うのは得策ではない。ここは一歩身を引こう」みたいな名前がつけば互いが共通的な認識によりその争いを避けられます。この”共有”というのが大きいのでしょう。ヒト意識が統制されることで、同種を殺すようなリスクのある行動をとらずに仲間を支配することが可能になるわけです。


ここでいう「仲間の支配」とは、即ちルールの作成です。道徳の作成、と言っても良いでしょう。この国にいる限りは一夫一妻というルールを守っていただきます、みたいな決まりができることで、その決まりにより他人を支配するというような行動が可能になりました。過去の歴史を見ても、争いのほとんどはそのルールを作る位置に登りつめるための覇権争いだったでしょう。欲望に従うだけの殺し合いから、欲望を抑えるルールを作るための争いへと変化したのが、つい百年くらい前までの時代ではないだろうか、と思います。この功績は言語の誕生によるものでしょう。

文化の誕生


では言語が生まれると次に何が起こるかと言うと、ヒト意識が統制されたことにより、その地ごとに特徴のある文化というものが誕生します。現在でも様々な国などの間で大きな慣習の違いがあるのは明らかでしょう。


その内容に違いはあれど、しかしどの文化でも共通して言えるのは、「文化の発達によりヒトの本能的な欲求は抑制されている」ということです。基本的に文化(文明といった方が良いのでしょうか? その違いはあまり分かっていません)というものは、欲求に忠実な人間の姿を認めません。例えば日本では、法治国家という名のもとに、欲望に忠実に行動した結果起こり得るリスクを回避するために欲動に背く制約を多く課しているわけです。これのおかげで我々の多くは、突然女性を襲ったりしないし、腹が減っても万引きをしません。


しかしこれは生物にとっては重要な問題であるのは間違いありません。だって種の存続に背くことですから。少子化の一途を辿る今の日本を見れば明らかです。余談ですが、僕のバイト先の常連さんは、一夫多妻制を認めれば少子化は絶対に解決すると言っていました。確かにそんな気もします。でも日本には一夫一妻という制度があるので、種の存続という側面から見ると不利な制度を自ら作っているわけです。これにより人々(主にオス)は「いろんな人とセックスがしたい!」という欲動を常に抑え込んでいます(ちなみに僕はあまりその欲動がありません。ただこれは、一人の女性を愛すべきという価値観に洗脳されているだけです。つまり僕も文化の支配により種の存続に背く人間の一人であるのは間違いない)。


少し話は逸れますが、三大欲求というものがあり、その中で一番多くの比重を占めるのは性欲だと思っています。なぜなら三大欲求とは種の繁栄のために存在するものであり、性欲は繁殖、食欲は栄養摂取、睡眠欲は体調管理に対応します。後者の二つは個体の維持に必須であり、その個体の維持によりその後の繁殖が可能になるということを考えると、食欲と睡眠欲は性欲のお膳立てに過ぎない気がします。「セックスのために栄養を取らないといけない」はあり得ても、「飯を食うためにセックスしないといけない」はあり得ないでしょう。全ての行為はセックスのためなのです。


と、話は逸れましたが、それほど重要な本能を我々は言語の統制により自らの手で崩壊させたわけです。なのになぜ人類は崩壊しなかったのでしょうか。


その答えは、まさにこの文化の継承こそが、セックスに代わるほどの重要な意味合いを持ち始めたからです。人々は、セックスにより子孫を繫栄させる欲に代わり、発話などにより自らの文化の継承をする欲を習得しました。「多くの女性とセックスしたい」というDNA保存の欲に代わって、「多くの人に自分の文化を継承して欲しい」という文化保存の欲が登場して、後者が第二の種の保存のような形での役割を持ち始めたのが今ではないだろうかということです。

ネットの誕生


そうした文化保存の欲を増長させたのがまさしくインターネットでしょう。インターネットの発達により、他の文化を簡単に知ることができる今、他の文化の良い所を抽出してさらなる良い文化を作り上げ、その果てにそれを顔の見えない遠くの誰かにパスする、ということが可能になりました。つまり前章の言葉を借りるなら、ヒト個体がセックスする時代から、文化同士がセックスする時代に変わったのではないでしょうか。今の人々の欲求は、これで多くが説明できる気がします。


自分のことを理解して欲しいという欲は、自分の文化の相対的位置を高めたいということであり、即ちこれは優れたオス/メスでありたいという性欲に対応しますし、他にも例えば、多くの文化を知って知見を広めたいという欲求は、色々な異性と交わりたいという性欲に対応します。


つまり我々は、ヒトという種が滅びない程度までその生殖の欲を抑え込み、その代わりに文化の生殖の欲でその不足分を補い合うようになりました。今までの多くの戦争もそうではないでしょうか。あれは人同士が戦っているようで、文化同士の戦いでもあります。文化同士が戦うため、その戦力として人が戦っているだけです。大袈裟な言い方をすれば、文化がヒトの体に乗り込んでヒトを操縦しているだけと言っても良いでしょう。

自殺者は文化に切り捨てられたヒト


自殺の話はどこで出てくるんだ、と思わせたかもしれませんが、もうそろそろです。


前章で、文化がヒトの体を操縦しているみたいな表現をしました。それは他の文化より自らの文化が優れているという自己顕示のための操縦です。この操縦の結果、文化が戦力としてヒトを切り捨てる、これが自殺だとは考えられないでしょうか。


何とも言葉で伝えるのは難しいのですが、例を出してみます。


例えば切腹なんかを考えましょう。問題を起こした時には潔く命を捨てるのが男の道だ、みたいな背景がそこにはきっとあると思います(歴史の知識がほぼ皆無なのでこれも間違っていたら指摘をください)。ここで、「問題を起こした時には潔く命を捨てるのが男の道だ」という考え方は、文化を構成する立派な単位の一つです。そして、その文化がその覇権争いのためにその武士の体を操縦しています。文化というものは食物連鎖においてヒトのさらに上に立つ生物だというような想像をしてみてください。文化同士のセックスに重きが置かれてしまった人類は、常にその文化が優越感に浸るための道具にされています。だからその武士はその文化の駒として命を消費されてしまうのではないでしょうか。文化同士ではなく個体同士のセックスに重きが置かれている時代なら、問題なんか起こそうとも切腹なんかせずに女性とセックスにいそしんだ方がはるかにメリットが大きいはずです。それにも関わらず切腹などという生物としておかしな行動が認められてきたのは、個体の繁殖よりも文化の繁殖に重きが置かれてきた何よりの証拠なのではないでしょうか。


僕はこれが自殺の犯人ではないかと、今は考えているのです。

文化の繁殖をどう捉えるか


ではここから、自殺をどうなくすかを考えましょう。文化というのは我々の上位に位置する生物だとしても、その文化を創り出すのは我々なので、どのようなものを作るかは我々が選択できます。今までの我々は凶暴な文化を自ら作ってそれにより自らの首を絞めてきました。そうした状態から何年もかけて我々を苦しめない文化の制作に必死になってきたのでしょう。おかげで今の我々の幸せな暮らしがあります。


まず、文化のセックス自体に罪はありません。むしろ、どんどん交尾をするべきだと思います。


今まで文化のセックスが悪い方向に向かった例だけ出しましたが、例えば早朝に元気よく挨拶をする人を見て元気が出たので自分も次の日からそうするとか、こんな些細なことでもそれは立派な文化のセックスです。我々の究極的な目的は、このような類の文化のセックスに自らの体を支配してもらうことではないでしょうか。我々は文化の上には立てません。この先どこまで行っても、人間というのはいつまでも文化を維持するための駒であり続けるでしょう。ただ美しい文化の駒にならなって良いと思うのです。


誰の(どこの)文化を見て、その文化を他者にどのように伝えるか、ここに全てがかかっています。これは即ち文化の繁殖です。


我々は例えば子供を作るとき、それに慎重にならないといけないという風潮があります。今産んでその子供をちゃんと育てられるのかとか、自分は子供に恥ずべき親ではないだろうかとか、はたまた障害があるのに産むのは幸せな事だろうかとか、そんなことを考えられるのは良いことだと捉えられているはずです。


しかし似たような慎重さが文化に対してあるでしょうか。ヒトのセックスより文化のセックスに重きが置かれた今、むしろこちらの方が重要なのではないかというような気すらします。今その文化を産んでちゃんと育てられるのか、その文化に恥ずべき親ではないか、その文化に障害があるのに産んで良いのか、そのように文化の誕生に対して慎重になっている人間はまだ今の世には多くない印象です。自分も例外ではありません。一人一人が文化の創始者であり、その文化は気付かぬうちにセックスを始めるなどという意識は今までなかったので、きっと自分が負の文化に加担したことも多い気がします。


人間が今の世を生きるにはこれしかないです。文化をどう伝えるか。今書いているこの文章だって、いつしかの文化のセックスのために消費されるわけです。その中途に今の我々がいるということを思うと、なんだか生きていく気が湧いてくるのは僕だけでしょうか。


こんな綺麗ごとばかりで文章を締めくくるのは性に合わないのですが、自殺をなくすにはきっと何千年もかけて文化の繁殖、世代交代を繰り返すしかないです。頑張りましょう。