自分の意志はどこまで存在していますか?

酒が人を酔わせるのではなく、その人のもともとの本性を酒が暴くのだ、みたいな格言があります。


そして、それに感銘を受ける人がいます。そうだ、酒のせいにしないで自分を見つめなおせ、みたいに。


このように考えられる人を見たときに、羨ましい、と感じるようになりました。そうだ、悪いのは酒だ、みたいな考えができるのは、自己の意志が及ぶ範囲に対してはっきりと線引きができていることが明白だからです。


かつては自分もそちら側にいたはずでした。誰の責任かを明らかにすることはほとんど例外なしに善だと考えていて、その所作があって初めて何かしらの成長がもたらされるものと思ってきたわけです。何が悪いのか、原因はどこにあるのかを熟考することなしにその先を進むことができない人間だった、と言っても良いでしょう。


しかし、それはある種の苦痛を伴う作業であることを最近ようやく理解し始めました。言葉とは実に不便で、そのせいで言葉には決して表せないような大事なものを失っているのではないか、という恐れすら最近の自分には芽生えてきました。


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例えばある店に入り、自分が商品を買おうとした時に「こちらのほうがおすすめですよ」と店員に勧められた商品を手にしてみるとやはりこちらの方がいいかもしれないなんてことを思えてきて、結局買うのはそちらの商品にしたというようなケースは誰もが経験したことがあるでしょう。


このとき、自分の意志というものはどこまで存在しているのでしょうか。今自分が購入した商品は、店員に勧められはしたものの自分がこれがいいとはっきりと思って購入したものなのか、それとも自分はやはり前に手に取っていた商品に一番の魅力を感じているがプロの店員が勧めているという事実によりそれが魅力的だと思わせられただけで実は購入を決めているものかもしれません。このようなことを考え始める時、いったい自分の中にはどれほどの自分が眠っているのかということを意識せざるを得なくなります。自分の中をどれほどの自分が占めているのかというのもそうですし、元の商品を手に取った自分とそれを買わなかった自分の間には「それは自分だ」と判別できるような境界がどこにあるのだろうか、というようなことも考えざるを得なくなります。


もしも店員の勧めを断って元に手にした商品を買った場合であればこれは明らかです。店員の意志を断って自分の意志を尊重しているので間違いなくその選択は揺るがない自分を意識させるでしょう。しかし少しでも揺らいだら終わりです。ちょっとでも「あ、それもいいかも」と思ってしまえば、そう思っているのは本来の自分?それとも店員のせい?みたいなことを疑い始めないといけないわけで、これははっきり言って辛いです。一番に理解しているはずの自分を疑うことになるので。


こうしたことに立ち向かったデカルトはやはり偉大だと思わざるを得ません。疑っている自分以外に確証を持てる者などないと結論付けた彼のそれにも、一切の異論など挟めません。


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突然ですが、自分語りをします。


僕は基本的に他人から干渉されることを嫌っています。自分のことは自分で決められる人だ、というようなポジティブな理由でそれを捉えてもらえることもありますし、聞く耳を持たない頑固で融通の利かない人間だと評した人もいることでしょう。また僕は基本的に他人に興味がありません。僕の興味はおよそ”モノ”に向かっていて、”ヒト”に向かうことがありませんでした。他者の話を熱心に聞くことはありましたが、それは自分が実現したい何かのためであって、つまりヒトは手段であり、決して目的ではありません。その人に話を聞いてもらえば満足だ、とか思ったことは人生で一度もないし、自分の選択を他者に相談したことも一度もありません。


それは強さと捉えられる反面、ぼろぼろな弱さでもあります。自分の意志の中に他者のまなざしを招き入れることを徹底的に拒んでいるわけですから、それは自分に対する自分の意識が他者によって突然瓦解するのではないかという可能性に怯えているだけなのかもしれません。他者の視点を取り入れながらもそれでも確固たる自分がいる、と考えられる人が一番強いと言えるでしょう。先ほどの例に則るなら「店員に勧められたものを買ったけれどそれがいいと思ったのは自分」とか「酒を飲んだから酔ったわけだが、酔った末の発言は自分の潜在的な意識」みたいに、自分と他者の間にパパっと線引きができる状態が理想です。しかしその理想の状態ですら、それはあくまで個人の判断という範疇を出ず、本人がそう捉えることができるというだけで、ではその境界を論理的に説明してくれと尋ねれば誰もがお手上げとなります。


と、ここまで自分の弱さを語ったうえで、それが実生活にどのように反映されたのかをさらに述べます。


自分はこれまで出会ってきた同級生などとは少し種を異にする生活をしています。東大に行く人間がほとんどの高校でわざわざ京大を選び、入学した学部は二年間で捨て、卒後は就職も院進もせず、ただ自分の能力に限界まで向き合う時間を過ごすばかりです。そしてこの生活を、自分は本当にこれ以上なく楽しいものだと感じています。


しかしそれを疑うことなくそう思えるのは自分だけです。


以前、このようなことを書きました。

僕が嫌悪の情を抱くのは、自分の選択に対してではなく、自分の選択が社会から逸れる者に向けられる視線の中に溶け込んでしまうことに対してだ。「そんなことをして、その先どうするんだ」という疑問を他者にぶつけられる自分を想像しては辟易している。どんなに自分の中では信頼のおける一つの選択をしたとしても、周りから見たときに「うん、お前はその道で大丈夫だろう」という他者からの視線の中に入り込む余地がない。今はそう言ってくれる親や彼女だって、その説得には労力がかかった。

だから基本的に、今の自分はセンチメンタルになっている。とにかく、他者からの評価に触れたくない。なるべく、社会からは撤退したいと思っている。

しかしそれは、自分は社会に貢献したくない、という意味では全くない。むしろその逆で、この先も社会への貢献を模索したい。しかしそれは影からひっそりと行いたいものであって、メディアやSNSなどで注目を浴びたいというような欲が一切ないということだ。これを自分は「撤退」と表現している。

大学生の身分が消えたとき、自分はうまくその撤退の一歩目を踏み出せたようで気持ちがいい。研究室に行って「進路はどうするの」と聞かれることがない。部活に顔を出して「あの先輩は今何をしているんだろう」と疑問に思われることもない。全ての集団の中で自分は過去の人として処理されることが嬉しくある。

僕にとって、「京大生」という身分は不幸だった。

人間は、全生物の中で唯一、意味の世界に生きることができる。だから我々は一つ一つの言葉に、各人の持つ理想と概念を吹き込んでいる。「京大生」という言葉は、将来への希望であふれる言葉だと思う。一流になって欲しいという家族からの期待に応えること、いかに収入の高い職へとたどり着けるかのレース、それらが得意な人間が称賛される世界が似合う言葉。そのくせ、仕事ができなかったりコミュニケーションが思うようにいかないと「京大生でもこれか」みたいな反応になる。馬鹿言え。京大生という言葉の意味は、京都大学にいる/いた人間、というだけだ。それ以上に意味なんてない。

それがすべて消えた。とても幸せだ。肩から力が抜ける。

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ここにこのように書いている通り、僕が自分の生活に対して抱いている感触と、他者が自分の人生をどのように見るのかと予想する内容は、大きくかけ離れています。自分の中では疑いようもなく幸せな生活ですが、他者から見たらそうではないということを予め想定して生きている節があります。だから京大を出た時言いようもない幸福感に包まれたわけです。もう誰かの期待を自分の中に内在化させる必要はないのだな、と。



まとめると、僕は自分の生活や正確に確固たる自信を持ちながらも、それが自分のものだと信じたい臆病さ故に他者の視線を拒んでいるという状態にあります。僕がこのことに気が付けたのは朝井リョウさんのおかげでした。彼の著書の”正欲”の一部を引用しておきます。

私はずっと、この星に留学しているような感覚なんです。

いるべきではない場所にいる、そういう心地です。

生まれもった自分らしさに対して堂々としていたいなんて、これっぽっちも思っていないんです。

私は私がきちんと気持ち悪い。そして、そんな自分を決して覗き込まれることのないよう他者を拒みながらも、そのせいでいつまでも自分のことを考え続けざるを得ないこの人生が、あまりにも虚しい。

だから、おめでたい顔で「みんな違って、みんないい」なんて両手を広げられても、困るんです。


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ここまで書いたうえで、やっと僕が胸にしてきたクエスチョンを提起できます。


はたして、このように他者を拒み続ける人生というものは幸せでしょうか。


自分は今まで散々書いたとおり臆病な人間なので、自分の足元を揺らがせる人間とは付き合いません。今の生活をしていくと親に言った際に「お前は楽をしたいだけ」と言われた時も、自分は親との関係が途切れることを覚悟しました(親には後になんとか説明し、今では応援してもらっています)。


僕の感情はシンプルで、自分の人生を疑われるとその疑いの視点が自分の中にも内在化してしまうからそういうものとは接するのを避けます、それでも自分は十分楽しいので、というものです。しかし、このような生き方を提言した時、このように言ってくる人がいるのは間違いないでしょう。「他者とのかかわりあいで見えてくる新しい世界もあるはずなのに、それを知らずに生きていくのは勿体ない」と。


他者と関わらないことで見えるものが見えなくなると言うのなら、あなたが他者と関わっているせいで見えなくなっているものがあるだろう、と僕は思って来ました。全ての事象は結果論にすぎません。あなたの選択で閉ざされた未来がある、これは全人類に当てはまります。それを分かったうえで一番自分がそれに納得しているんだからいいじゃないですか、僕はずっとそう思って来ました。


しかしその反骨心が、自分のどうしようもない臆病さ故にやってきていることも僕は知っています。他者に介入されると僕は自分が自分でなくなるような気がするのです。僕が変わればいいことも分かっています。他者の意見は丁寧に聞きながらそれでも自分の生き方を選択します、と、それでいい。でも僕の心はそうは出来なくなっていて、であれば人と関わらないことが最も堅実な一手になりました。誰も悲しませずに済むし、自分にとってもWinなので。



ここまで読んでくだされば、めんどくせえなお前、と、読者の方をさぞかしイライラさせてきた頃でしょう。お前が納得してるならそれでいいじゃないか、自分の生き方に自身があるなどと言いながら「果たしてそれは幸せか」というような問題をうじうじと考える自分の姿を良く思う人はきっといないと思っています、ごめんなさい。



なぜここまで思考がループしたのか、僕はその理由を知っています。



僕の命は、自分以外が救ったからです。



2021年の初めの三か月くらいは、かなり地獄でした。卒後の道が消えてモラトリアム期に入ったあたりで友人の五周忌を迎えたりと、メンタルに余裕のない生活が続いていました。やはりこの世に取り残された者という感覚が自分の中では強く、どうせ死ぬのなら今の自分の存在は無ではないかなどと考えては自ら後を追うことなども考えました。その果てにカーテンレールに電源コードで輪まで作った後、それでも死ねなかったのには、主に二つの理由があります。



ひとつは、自殺の勉強を大学でしたことでその痛みや死亡機序、後遺症などの知識があり、儚くも「今以上に苦しくなるのが嫌だ」というちっぽけな生物本能がまだ自分に残っていたことです。が、これはさほど重要ではありません。


ふたつめは、自分の人生がまだ自分だけのものではなかったからです。きっと自分が死んだら親が悲しむだろうことは容易に想像できました。親だけではありません。彼女や高校の友人など、他の数人の顔が思い浮かびました。すると気がつくでしょう。この瞬間、僕はしっかりと他者の視点を自分の中に内在化させているのです。僕の人生は僕のものという信念が揺るがないのなら、自分の人生は自分の勝手だと言ってその人生に幕を閉じることだってできたはずです。でもそれは出来なかった。他者の視点は自分の中に入れたくない、それを入れると自分が瓦解するような気になる、そう思っている今のこの瞬間の命は、他者の視点が自分の中に宿ったことで存在している灯火でもあるわけです。こうした莫大な矛盾を抱えていることを自分は知っているから、その狭間で身動きが取れなくなっているのだと思います、たぶん。



他者と関わらずに一人で生きるのが楽しい、満足、今は自分の行動を自分だけが100%で褒めてやりたい、そう思える命があるのは自分だけの功績ではないと分かっているからこそ、自分の人生に100%の自信なんて恐らく未来永劫にやってこないわけです。



『悼む人』という、全国の死亡者の遺族等を訪ねまわる主人公を描いた小説があり、この主人公が義理の父にこのように言われるシーンがあります。

「お前の人生は、しんどいなあ」

きっと主人公も、自分でそのことが分かっていたと思います。僕も同じです。でもそうしたアンビバレントで不幸な感情を考える時に、僕は一番筆が進んでいる。だから、仕方ないのです。