この世に生まれることは悪なのか

反出生主義、という考え方がある。これは文字の通り出生に対して否定的な立場をとるもので、この考え方に自分は30%ほど共感できる。


反出生主義という言葉を聞くのが初めてである人にとっては中々受け入れがたい考え方であるかもしれない。きっとその人たちは反出生主義に対して様々な誤解があると思うので、まずはこの主張に対するある程度詳しい説明をしておかないといけない。


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反出生主義は、その名の通り出生に反対する。しかしそこで何に反対をするのかというその”対象”は、同じ反出生主義を名乗る人の中でも色合いが異なることが多い。


まずは出生する主体を否定するもの。これはつまり親へ向けての批判となる。「子供は親を選べないし、どんなに幸せになって欲しいと願っても不慮の事項で不幸な目に遭わされる可能性はあり、なのにこの世に産み落とすなど無責任だ」というのがその主張。もっとも過激な派閥だと「今すぐ全人類は出生をやめるべき」と考えている人もいる。


次に、出生をすることには反対しないが、出生されることに反対するもの。これは自分を生んだ親ではなく、この世に産み落とされた自らに向けての批判である。「親が一生懸命産んでくれて感謝しないといけないが、不幸な自分はこの世に生まれたことを嘆くしかない」というニュアンスの主張となる。この派閥は出生を否定しない。その主張は常に内向的で、「生む」ことではなく「生まれる」ことを否定する。



とこのように、何に対して批判の矛先が向くかというのは人により違いがあるが、こうした主張をする背景はただ一つだと考えていて、それは「人生を過ごすうえでの苦痛の完全な排除」である。人類がこの世から消える選択をすれば、苦痛を感じる人間はきっぱりとゼロにできる。子供は親を選べないという事実と、どんな人生にも突如不幸が訪れる可能性を考えれば、出生をやめるのは全人類の苦痛をゼロにする唯一の方法である。



ここまで読んで、多くの人が思うだろうことについてその説明を詳しくする。



まず多くの人が「出生をやめれば苦痛が消えると同時に快楽も消えるではないか」と思うはずである。その通り。快楽も消える。こう考える人は「苦痛を乗り越えてこそ快楽があり、快楽とは苦痛を以てして快楽と呼べるではないか」という主張をするはずだ。


このように考えられる人はとても幸せだと思う。自分もこのように考えられるが、しかしこのような主張をできる理由は何かといえば、「自分に成功体験があるから」である。何か苦労をしたがその代わりに達成感などの大きな報酬を得ることができた、という成功体験がない限り「苦痛も必要だ」などと大口を叩くことは出来ない。それは残念ながら苦痛を成功の糧にできる幸せな人の意見だ。生まれて幼少期からずっと実父に性的虐待を受けてきたとか、紛争地に生まれてずっと生死を瀕する状態だったとか、そんな人たちに我々は「その苦痛も成功までの糧」と言えるだろうか? 言えるならいい。ただ言えないのならば、「苦痛は成功するために必要なもの」という考えは幸せな成功者にしか掴めない幸せな実感だ。「さすがにそれはどうやったって不幸」という人の生まれながらの環境の初期値に対しての限界を見定めるような視点は我々のどこかに必ずあるはずで、「苦痛は生きるうえで必要」というのはそうした人に対して有害な善意の押し付けでしかない。というかむしろ、苦痛を快楽に変換する手段をどうやっても掴める環境にいない人たちのために反出生主義というものは存在するのだ。


次に、、そのように人生を不幸だと捉える者を消す代わりに生きていることに幸せを感じられる可能性のある人間の命までをも消すのはおかしいという反論もきっとあるだろう。しかしこれは論理的に否定できると思っている。なぜなら幸せを感じられる可能性のある人間はまだこの世にいないからだ。今生きている幸福な人間の生を奪うことは悪と言えても、今生きていない人間の幸福を奪うことは悪ではないからだ。次の表を見て欲しい。


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人類がいる状況において快楽がないのは悪だ。生きていても幸せがないなんてそれは嫌だと誰もが思う。代わりに人類の世界に苦痛がなければそれは善だ。しかし人類がいない世界において快楽がないのは悪ではない。人類がいない状況を想定しているので快楽を享受する主語がないからだ。存在しない人間の快楽を奪うことは悪ではない。しかし人類がいない世界で苦痛がないのは善である。この世から苦痛を感じる人間をゼロにするという目的が果たされているからだ。


とこのように考えると、全人類の最大多数の最大幸福に則るのは人類がいない世界だという実に明快な結論が出せるのである。善と悪は数値では表せないが、人類のいる世界ではその演算の結果がマイナスになる可能性があるのに対し、人類のいない世界ではその演算の結果がゼロ以上であることが保証される。
(苦痛をマイナス、快楽をプラスとして計算)



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ここまで考えると、出生が行われなくなることが最大多数の最大幸福であるということはなんとなく納得がいくのではないかと思う。もともと存在しないということが最善なのは疑いようのない事実なのかもしれない。しかしそれでも反出生主義が共感を得られないのは、それを実現する手段がないからではないかと思う。


今生きている人に対し「出生をやめていただきます」と言うのは無理だ。この世にいない人類の快楽を奪うのは悪ではないという理論があってやっと反出生主義は成り立っているのに、出生を禁止すると出生に快楽を感じる人間の快楽を奪うことになり矛盾が生じる。今後生まれ得る不幸な命をなくすためだと説得しようとも、今出生を禁止されて不幸を感じる人間が生まれるのならそれはトロッコ問題のようなもので、苦痛を感じる犠牲を誰にするか選ぶ段階を踏まないといけない。これが倫理的に認められないのは明らかだろう。


そうなれば今考えられる最も幸せな出来事は、隕石の衝突なり人間の意図しない出来事により出生が不可能な状況になることである。これなら論理的に何も矛盾なく人類の苦痛をゼロにできる。しかし人為的にそれを引き起こすことができない以上、出生というものはいつまでも続く。だったら今ある苦痛をどのように受け入れどのように改善するかに重きを置くより仕方ないではないかと考えるのは至極真っ当だ。しかしその考えはどうしようもなく不幸な少数を犠牲にしなければ成り立たない考えでもある。人類は隕石が衝突するまで一生このループを繰り返さないといけない。


反出生主義は正論だが、実現する手段がない。


これが現段階での回答ではないだろうか。


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で、突然自分の話だが、ここ最近(特に四月以降)は自分の命を憂うことが一気になくなった。死にたいなんて思うことはゼロになり、未だに好きな事だけしている身だが周りの目に触れない生活を徹底することで楽に生きれている。


誕生日を迎えたが、誕生を祝ってくれる人がいるというのはなんとももどかしいくらいに幸せなことだ。人間は生まれてこない方が良いのか、そんなことを突き詰めた後に誕生を祝われるのは何とも不思議な感覚がある。


出生を呪う人の気持ちは、倫理的に正当化され得ないと思う。しかしそれが頭によぎる人の考えを頭ごなしに否定できるほど我々の世界は幸せではない。反出生主義というものに身を染めるほどの何かがこの地球にはあり、そうした不幸のもとに我々は立っているという、そんな見たくない事実を毎日意識などはしなくとも、頭の片隅に少しでも置いておくことは重要だと思う。