LGBT理解増進法……理解?

昨今LGBTの話題はなんというかタイムリーで、同性婚の話題もあがれば、資本主義と弱者男性を結び付ける論調も登場するなど、さまざまなことが今の世では謳われている。雄の目的は雌の獲得であるという、我々が逃げられない性質はこの世をどんどんと不幸にしているようにすら思われる。


そんな中、LGBT理解増進法という法案が法制化を進められており、その内容は以下に載せる。


lgbtrikai.net



これがよく分からないよねーという話。


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LGBTの本質は、生物的なもので先天的であると理解している(もしも違えば指摘ください)。


異性に性的な視点を向ける我々が今から同性を愛せと言われても無理だと思うのと同じように、同性に性的な視点が向く人たちに今から異性を愛せというのも同じように無理がある話であり、それは生まれつきの何かしらの体内の機序でそうなるのであって後から自分の意志で変更が自由にきくようなものではない。


それは”生物学”の視点でしか語り得ない。それを政治的な法という枠組みで捉えることはそもそも矛盾なのではないかと思う。政治的に理解できるLGBTが存在するのなら、政治的に理解できないLGBTが登場する恐れがある。では後者はどうなるのかと言えば事態はさらに深刻で、マイノリティの中での我々が想像しうるマジョリティにしか目が行っていない策となる恐れがあるのではないか、とも感じる。


まず、道徳というのは進化に背反する概念である。道徳は我々の進化の本能を抑止することを目的ともしている。雌の取り合いで暴力による力比べを雄はしてはいけないし、美形の雌を目にした時にいきなり襲い掛かり交尾をすることも許されない。それを許すと社会の最大多数の最大幸福に背くからであり、弱肉強食の社会の格差は、道徳によりそのある程度が埋められているはずだ。このように道徳を進化の欲望に反するものとして位置付けるのなら、同性婚を否定すべきでないというのはおかしなことではない。同性婚は子孫を残さないが、そうした生物の進化に反するものが存在することを道徳(この場合は倫理という表現の方が適切かもしれない)は推奨することができる。そこに対して「人として生まれたのなら子孫繁栄に貢献すべき」などと独りよがりな道徳を語り出すのであれば、それは生物学と道徳の相反する関係をうまく捉えられていない者の発言となる。


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であれば、政治的に理解できるLGBTという概念もなかなか危険である。生物学と政治だって、上と同じような理論で相性が悪いものであると判断するのは至極真っ当である。


ただ百歩譲って、政治的な枠組みでLGBTをとらえるということに目を瞑ったとしても、ではこの法により我々はLGBTの何を「理解」すべきだというのだろうか。


「理解した」とは、いったいどういった状況を刺すのだろうか。


この世には同性に性的な視点が向く者と向かない者の二つに分かれ、その二つは互いに独立していて、時間が経とうとも交わらない。つまり、片方に属する人間はもう片方に属する人間と同じ体験をすることがほぼ不可能という事。昔は男性が好きだったが今は女性が好き、という変化はほとんどの人間が経験しないことだろう。その性質は人生が終わるまで基本的に一定である。


では我々がLGBTの何を理解できるかと言えば、それはLGBTの性質を持つ人がこの世にいるということ、ここまでではないだろうか。


例えば我々の大多数には、人を殺す人の気持ちが分からない。人を憎むことはあってもそれにより命を奪うという思考に至る機序を我々の多くは理解できないはずだ。しかし、そういった感情に任せて他者を殺害する愚かな人間がこの世にはいる、という事実だけなら理解できる。


つまり、その人の中にある体験世界は理解できないが、外の第三者から見たときに浮かび上がる一つの事実としては理解できるということだ。


では、例えば同性婚を認めず、ひどい場合ではそれを罪にすべきだなどと語る人間たちは、LGBTがこの世にいるという事実すらも理解できていないのだろうか?


答えは否である。彼らはそうした性質を持つ人間がこの世にいると分かったうえでそれを醜い性質だと捉えて攻撃している。きっと彼らはLGBTの体験世界を理解できてはいないだろう。しかしそれはLGBTに寛容と自負している我々だって同じなのだ。同性婚に楯突く人間もLGBTが存在すること自体は理解できているし、LGBTを認めるべきだと思う我々もLGBTの体験世界に入り込める日は来ないのである。


だとしたら、問題の本質はLGBTを理解できているかどうかだろうか? そうではなく、LGBTを放置できるかどうかではないかと思うのだ。


存在自体なら誰もが理解できるし、しかしその人の中の感情となると誰もが理解できない。だとしたら理解するという概念を一度諦め、放置できるかどうかに焦点を当てるべきではないかと感じた。



自分はLGBTではないが、しかしその立場からして考えたときに、理解増進法などと政治的な枠組みで捉えられることと、理解など求めないのでとりあえず何も言わずに放っておいてもらうことのどちらが嬉しいかと言われれば、それはきっと後者に寄るのではないだろうかと今まで記事を読んだりした中では思うのである(これは個人の想像であり、LGBT当事者の情とは無関係です。筋違いでしたらそれもご指摘ください)。


人に迷惑をかけない範囲であればその性質には噛みつくべきではないというのが自分の考えだ。誰にも迷惑をかけていないものは基本的に放置して、その人と関わることで幸せになれると思ったときにだけ関わればよい。同性婚で言えば、同性婚が流布すると少子化が進む恐れがあり将来の高齢化社会にとって迷惑だという意見があるのであればそれはその題で議論をすれば良いと思うが、しかしそうではなく「性的マイノリティを理解しよう」という方針で躍起になったとしても、それは幸せな未来を招くことができる気がしない。