多様性とはマイノリティを守るものではない

近くに発売した朝井リョウの『正欲』という著書があり、単行本であったため購入を断念したのだが、その冒頭文は公式スタッフのTwitterアカウントで公開されており、その文章に感銘を受けた。




この文章で、多様性について触れられており、そこに「おめでたさ」があると述べられている。そしてその「おめでたさ」の由来は、見たくないものには蓋をする人間たちが想像のできる異質に対してのみしか両手を広げていない事にある、ということだ。



現実そうだし、自分もそうだと思った。このおめでたさはどうしたら破壊できるだろうかということを最近考えた。今の段階で自分が出せる結論は、「多様性はマイノリティのためにある」という考えを一度捨てることではないかと思う。いつから我々は、マイノリティを救うためのものという意味合いで「みんな違ってみんないい」と口にするようになったのだろうか。



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多様性を認める一番のメリットは何だろうか。それは間違いなく、我々の社会の生産性の向上だと思う。



例えば、左利き用に開発されたはさみ、を例にとる。



かつては左利き用のはさみなど存在しなかった。どれもが右利き用に設計されていて、だから左利きで生まれてしまった人間ははさみを使う事業が困難となる。しかし世の中は右利きが圧倒的に多数を占めるため、左利きが不便していることを的確に知る機会が右利きの人たちには多くない。


そこでたまたま、左利きの人が不便していることを知った右利きがこう言うのである。「左利き用のはさみを開発すれば、はさみを使う事業の生産性が向上するのではないか」と。それによりはさみを使う事業の効率は、僅かだとしても向上するのは確かである。



ではこの流れにおいて、左利き用のはさみを開発したのはなぜかと言えば、左利きの人に心地の良い生活をしてもらうためというより、社会全体にとってその方が幸福だからだと言った方が適切ではないだろうか。どんなに左利きが心地よい生活になろうと、右利きにとって何のメリットもない行為が即座に認められることはあり得ない。この世の中はマジョリティが決定権を握っている。全てはマジョリティが得をするためだ。



こう言うとマイノリティ側を軽視するような趣旨にとられかねないと思うが決してそうではない。左利き用のはさみの開発は、左利きにとっては事業の選択肢が増え、右利きにとっては左利きの参入を認めることで利益が増大するという、即ちWin-Winの関係の提供に過ぎないのである。だから左利き用のはさみの開発を、もともとは生き辛かった左利きのための救済策としてのみ解釈するのは誇張にあたる。これはただの物々交換だ。取引をしているだけ、と言ってもいい。



朝井リョウが言うところの「おめでたさ」とは、多様性という言葉の中に「親切」「道徳的」という概念が吹き込まれていることによるものではないかと感じる。実際はそうではない。自分にも他人にも利益があるならその選択肢が一番賢いよねというだけだ。それを親切と呼ぶなら親切でも構わないが、それは決して一方的な献身ではない。八百屋で白菜を買っているのと同じだ。八百屋で買い物をして「この八百屋に金銭の投資をするなんて私は親切な人」などと思う人間はまさかいるまい。買い手は食材が手に入り売り手は金銭が手に入るというWin-Winの関係が成立しただけだ。だから買い物は誰か弱者を救う行為だったかと言われれば、もちろんそうではない。



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今の時代、ここを勘違いしている人は実に多いのではないか。


例えば自分の感情の中になかなか周りに認めてもらえないものがあったとする。その時に「いろんな人がいていいじゃない、もっと多様性が」などと口にするのであれば、それは本来の多様性という言葉の意味からはかなり逸れている。左利き用のはさみが達成したのは社会の生産性の向上であるように、マイノリティ感情を認めて欲しいのなら、それをマジョリティが認めることによるメリットを提供しなければ本来は取引など成立しないはずなのだ。


そして左利き用のはさみが破壊したのは、かつて右利きが多数を占めていた社会が盲信していた「右利きばっかの世界なのに左利き用のはさみを作ると社会の生産性が向上する? そんなばかな」という固定観念である。右利きとしか出会ったことのない人間がこの世のどこにいるのかも知らない左利き用のはさみを作ることに懐疑的な姿勢を示すのは当然だ。しかしその固定観念、もっと言えばその人の中で形成されてきた正義が崩れることでより良い社会の形態が実現する。今左利きのはさみがあるのは当然だと思えるだろうが、しかし昨今においての同性婚だとか、そうしたテーマは今まさにその正義の崩壊の段階にちょうどいるのではないだろうか。


このことより、一つのことが言える。それは社会の向上に必要なのは、我々の一人一人の自我の正義の崩壊である。今まで盲信的に当り前だと思い込み信じて疑わなかったことが瓦解することで社会が良い方向に向かうという事に、我々は目をつぶってはいないだろうか。


多様性を認めろ、こんな私でもこの世で満足して暮らす権利があるはずだ、そうした主張の意図は残念ながら他者の破壊になってしまっている。それは「私を認めろ」という他者に対してのアクションの変更を求める行為で、社会の向上のために自己の破壊が行われるという覚悟のもと多様性を訴えている人間は、果たしてこの世にどれだけいるだろうか。



敢えてもう一度この記事の題に答えるのならば、多様性を認める理由は、異なる立場の双方が得をするためである。マイノリティだとかどうとか、その人が少数派か多数派かなどという事実ははっきり言ってどうでもいいのである。互いがハッピーならそれでオッケー。それ以外にない。しかしそれを目指す道のりは修羅である。なぜならそれを実現するためには世界のどこかの誰かが自己の正義を破壊する必要があるからだ。そしてそれを他者に求めてはいけない。全部それを自己が引き受けるつもりで議論は行わないといけない。ガリレオの話を、頑なに信じてきた天動説が破壊される覚悟を持って聞いた人間はどれくらいいただろう。


自分もこのことを考えて以降、議論の末に自分が破壊される覚悟を持つようにしているが、意識していてもこれは難しい。我々は納得しないことを実行するのにストレスを感じる生き物だ。納得できるまで相手に反論しなければならないし質問しなければならない。しかし何かに納得のいかない感情が、自分の正義を崩したくないというプライドによるものなのか、または本当にそれが納得できないだけなのかという判断は、自分に対してであってもとてつもなく難しいのである。だから他者が「そんな頑固なお前が守りたいのは自分の正義だ」なんて言っても意味なんかありはしない。むしろこの発言こそが発話者の正義である。正義というのは循環するのでどこかで断ち切る必要を迫られる。




だから議論というものは難しい。ただしかし一点だけ、この議論の目的は自己の破壊による社会の向上だという理解をあらかじめ準備しておくこと、ここに一番の価値があるように感じる。


ちなみに金子みすゞは二十半ばで自死している。みんなちがってみんないい、はいったいどこへ消えたのか。それは「他者を破壊するための多様性」という闇の中ではないかと思っている。



正しく言い換えれば、こうではないか。



みんなの正義を殺して、みんなが得をする