動物と無能は感情に抗えない

会話にならない人というのが世の中にはある程度いて、会話にならないということはすなわち意思疎通が不可能ということである。自分の思いを言語化するという段階を踏まずにそれが相手に伝わることはないので、この言語化の能力というのはまず真っ先に鍛えるべきスキルであるはずだ。


記事の題は尖った文言だが、これはひろゆき氏の動画から拝借した。


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題は尖っているけど、実に良い内容。感情のコントロールは誰もが出来てはいるものの、それをすべき場面としなくてよい場面の見定めが下手、というか頭の使い方が下手な人間がこの世には大勢いる。



では感情を殺してまで優先するのは何かといえば、それは他者の幸福である。



動画で挙げられているような場面において、例えば空腹を感じても八百屋の野菜にかじりつかないのは、その野菜にかじりつくと八百屋の経営に被害を与えることになり、それを許すと国家としての集団の機能が低下するということが説明できるからである。



このように、感情をファーストに考えた行為が他者の幸福を侵害することが目に見えてわかるときに人はそれを自制できる。そしてその自制に必要なのは、自制するにあたっての十分な論理である。八百屋の野菜にかじりつくと国家が集団として成立しなくなるよね、という論理を一から説明できない人が野菜にかじりつく。それだと犬とかの動物と同じである。



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感情がない人間というのはいない。誰もが感情を持つ。ではその感情を押し殺すべき場面とはいったいいつだろうか。



八百屋の例はあまりに極端なので、別のシーンで考える。



例えば喫茶店で、店員のミスでコーヒーを服にこぼされた男性が、場内に響き渡る声で「ふざけるな!」と怒鳴ったとしよう。店員は委縮し、店長などが出てきて対応してその場が何とか収まった。さて皆さんはどう思うか。


コーヒーをこぼしたのは店員なので男性は何も悪くない状況で被害が生まれたことになる。怒鳴る気持ちも全く理解できないとは言えないが、しかし怒鳴る必要はない。「私は何も悪くないと思うので、クリーニング代をそちらでもっていただけますか。できればコーヒーもサービスにしていただきたいです」ということをやんわりと伝えればよかっただけだ。


しかしこれはその喫茶店の様子を外から見ていた他者の視点であり、他者から見れば一切メリットのないような行動なのになぜ男性が怒鳴ったかといえば、「自分は何も悪くないのにコーヒーで服を汚されたなら、怒鳴る権利くらいある」と自分を正当化した末にその感情を自制する必要がないと判断されたためである。つまりその瞬間、男性は動物になっている。楽しいティータイムなのに近くの席の人が怒鳴り出したら周りの人もきついだろうな、という視点に立って怒鳴るのを自制する観点が消えている。



で、バカな人ほど、この自制の基準が緩いというわけだ。論理に身を任せられない人ほど感情が全面に出るのは当然のことだ。論理で感情を封殺する訓練が足りていない。



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堂々巡りになる議論は、基本的に感情が邪魔をしている。私がこんな人に言い負かされるのは嫌だとか、痛いところをつかれたから話題を変えたいとか、そういう議論の解決と程遠い場所へと我々を連れて行くのが感情だ。コーヒー店で怒鳴った男性に委縮した店員が口を開けなくなったら店側の説明にも時間がかかるので、当然議論の解決にあたっては遠回りな選択をしていることになる。そういうことが頭の悪い人には分からない。


だから感情を理解してもらうために一番必要なことは、感情を殺すことなのだ。


夫婦げんかなどで「私だって寂しいの」「俺だって苦労してるんだ」みたいなやり取りに生産性を感じないのは、感情が感情で終始しており論理という乗り物に乗っていないからだ。



感情は当然万人に存在するが、その感情を安定してやり取りできるのは論理のおかげだということに気付かないといけない。論理という乗り物に乗せて相手の目の前まで運ぶということを自ら怠っているにもかかわらず「なんで私の気持ちを理解してくれないんだろうか」と被害者の面をすることにいったい何の生産性があるだろうか。



もちろん、感情という荷物を乗せる乗り物と、それを運ぶためのレールは慎重に選択する必要がある。しかしそのレール選びはどれだけ慎重に行ってもミスとなることはよくあることだ。対人関係において一発で正解を編み出せる人間はこの世にはいない。しかし、ではそのレールの軌道修正を行うものは何かといえば、それもまた論理であり、決して感情ではないのだ。感情はむしろレールを破壊して論理という乗り物の脱線につながる。


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中学校くらいの時からよく、YouTubeなどで弁論部の試合や討論番組を見ていた。題材は自分の関心のあるものばかりを集めていたが、そのなかで刺さると思った反論の方法などは自分も学び、自分がその場にいたらどのような反論をするだろうかということを常に考えていた。そこに感情はなかった。いや、あったのかもしれないが、それは感情として終始するのではなく、論理の布石となった。悔しいから、なにをするのか。悲しいから、どう未来を変えるのか。嬉しいから、どうこの感情を繰り返せるように行動するのか。そうしたことを考えずに「私寂しいの」とか「俺は怒ってるんだ」などで終始するなら動物と同じで、せっかく人間に生まれたのに何と勿体ないことか。何も考えず動物園で佇むフラミンゴの方がよっぽど見る人を幸せにできる。