本を読むことに意義はあるのか

なぜか小学校の頃の記憶で鮮明に残っているものがある。クラスの三十人ほどで、討論を行う授業だった。



題は「本とテレビはどちらがいいか」だった。



どちらの立場で討論に参加するかは各自で決めていいとの事だったので、僕は迷わずに本側に着いた。そうしたら、異様な光景を見せられた。本側に着いたのは僕ともう一人、当時学級委員を務めていた男子、計二人だけだった。


もしも題が「パンとご飯のどちらがいいか」とかだったら、きっとその人数は綺麗に半分に別れたのだろう。しかしこの題ではそうならなかった。読書よりもテレビ鑑賞の方が楽しいと思える人間がクラスの九割以上を占めていることに、なぜか僕は不快な気持ちがした。


「テレビは目だけではなくて耳からも情報が入ってくるから色々な体の機能を使うので成長する」とか「映像の方が分かりやすさは勝る」とか、そんなことを必死に訴えている奴ほど、毎週の計算のテストの点数は五十点にも満たないほど低かった。ばかだなあと僕は俯瞰していた。何も考えずに享受できる娯楽に身を任せているだけだからお前ら頭悪いんじゃん、なぜそんなことも分からないのだろうと、僕は見下していた。


一応、僕ともう一人の男子も応戦した。読み言葉という媒体から物語を考えることは想像力を養うのに必須だということを確か主張したはずだが、教師は「確かにそれはテレビにはない本の良さだけど、テレビにもいいところがあるよね」みたいな終わり方をした。きっと授業の要綱には「両者ともいいところがあることを伝えましょう」とでも書かれていたんだろう。僕はこの教師も馬鹿にした。そうやって「本読むのきらーい」とか言ってるだけの生徒に「テレビもいいよね」なんて言って甘やかすから想像力のないバカたちが量産されるんだろうと本気で思っていた。


「三人称ではなく一人称視点で物語を見られるのは本だけ」とも僕は言ったが、一人称ってなに?みたいなことを聞かれた時点で深いため息をついた。お前ら本を読まんから一人称って言葉も知らんのやろ。読めや、本を。



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さて、自分はこんな傲慢な小学生だったわけだが、今あの瞬間に戻ったら僕はなんと言うだろうか。マンガばかり読んでいた男子に、テレビのジャニーズにキャッキャしていた女子に、僕はなんと言えば彼らをねじ伏せられるのだろうか。



要するにこれは、読書をしない人間に読書の意義を分かりやすく伝えるにはどうしたらいいか、という疑問に等しい。



結論から言うと、僕が小学生の当時主張した「本を読むと想像力が付く」とか「一人称視点でのストーリー把握が出来る」とかいった論点は、読書の意義の本質ではない



つまり、小学生の僕はかなり大きな勘違いをしていたということだ。



もちろん、読書をすることで想像力が養われるというのは事実だと思う。そこは間違いない。では何が勘違いだったのかと言えば、「入口から見た意義と出口から見た意義は完全に別物である」ということを僕が理解できていなかった点にある。



読書をすると想像力が付く、という一つの事実は、出口から見た意義だ。要は、それは読んだ後に得られる感触でしかなく、読む前のモチベーションと直結するものではない。



例えば『君の膵臓を食べたい』の原作を読もうと思う人の中で、その目的が「想像力を養うため」とか「一人称視点でのストーリー把握を得意にするため」とかであった人間はどれくらいいるだろう。ほとんどゼロなはずだ。では何が目的だったかと言えば「映画化でヒットしたみたいなので本ではどう書かれているのか知りたい」とか「珍しいタイトルに惹かれてどんな話なのか興味を持った」とか、そういった目的がほとんどの割合を占めていたはずである。



読書好きになぜ本を読むのかと聞いても多くは同じ答えになるはずだ。真の読書好きはその意義を入口から見ている。「ストーリーを楽しみたい」「読むときの静かな空気感が好き」が真の意義であって、「想像力をつけたい」「頭が良くなりたい」は、出口から見た偽物の意義である。



でも考えてみれば当たり前だろう。


藤井棋士に将棋の意義を聞いて、何手か先までの洞察力を養うためと言って将棋を続ける人間がいるだろうか?

桐生祥秀短距離走の意義を聞いて、脚力をつけるためと言って毎日ランニングを続ける人間がいるだろうか?


いないのだ。出口から見た意義で人は動くことができないのである。人を動かせるのは入り口から見た意義だけであって、ある種のプロは必ずと言っていいほど、入り口からの意義でしかその身を動かしていないはずだ。それにより得られた身体能力の向上などは継続による副産物であって、何かを継続するための動機ではない。



我々のほとんどの三日坊主はこれが原因だ。出口の意義から入った行動が続くわけがないのである。



しかしこうした入口と出口の視点の差を分かっていないの人間は、自分よりも若い人にどうも偉そうに助言してしまうものだ。


「俺はこんな苦しい時代を乗り越えたが、それで忍耐力が付いた」

「生きるのが苦しいこともあったが、でもおかげで命の大切さにも気が付いた」

「勉強は面白くなかったが、あの時頑張って何とか出世した」


これらはすべて一つ一つが本人の重要なエピソードだが、これらは全部が出口から見た意義であり、他者の人間にも当てはまるような入口から見た意義には残念ながらなり得ない。



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幸い自分は、読書に関して入口から見た意義を享受しやすい体であった。ではこれはなぜかと言われれば答えは一つだ。



生まれつき。



これ以外に何と答えようがあるだろうか。



思い返すと、勉強も同じようなことだと過去に書いていた。


www.mattsun.work



楽しめるか楽しめないかは、生まれつきによるものが大きい。



例えば、桐生祥秀であっても、「脚力をつければ体つきも良くなるのに、お前らは毎日走り込みもしないからそんな貧相な体つきなんだ」とか言って来たらさすがにむかつくだろう。出口から見た意義を押し付けられても、そんなことは我々には知らんのだ。あなたがそれを楽しめる体であったというだけなのに、要はそれを他者に押し付けることを小学生の自分はしようとしていたのである。今思い返すと呆れるばかりだ。恥ずかしい。幼かったからだと何とか自分に言い聞かせている。



ただ、やはり活字に触れておくことは推奨したい。



エッセイでも詩集でも短編でも長編でも、世の中には様々な形の活字媒体がある。それに触れることは即ち生活の語彙を増やすことに等しい。どんなジャンルでもいい、みんなの各々が取り組めるもの――即ち「入口からの意義」に反しないもの――を手始めに、読むという文化だけはこの人類の間で継承されたい。