資格は誰のためにあるか?

レッテルというものがあまりに嫌いすぎて、肩書き社会を生きたくない、という一匹狼にありがちな思考が自分の中にも確かにある。


一匹狼に、資格はいらない。自分の能力を見定めることができるのは自分だけだと周囲をどこか冷めた目で見ているし、だからこそ群れるのを嫌う。周りの基準に従うことを嫌う。


だとしたら資格というものは"群れ"の性質のなかで初めて成立する。各々が自分の能力に自信を持ちそれで誰もが金を稼げるのなら資格という概念は必要ない。



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学歴社会では、出身の大学までが資格としての意味を持っている。就職の現場では、○○大学を出たという事実がその人物に対する一定の担保になる。



ぼくは、これを馬鹿にしてきた。くだらないと思ってきた。



周りを見渡しても、「この大学にいながら…?」と思うような思考をするほどが山ほどいる。他人から見たら自分もそう映ることもあるはずだ。どこまで高い地位へと登りつめた人間であろうと、周囲の人間には受け入れられない愚かな感性が、誰の中にも一つくらいは眠っている。



それを、人々は括ってきた。どこかへ出荷される段ボールのように、似た性質のものから同じ箱へと投げ込むことで社会は効率よく回るようになる。荷物の質が高ければ高いほど、その段ボールは豪華になりセキュリティも強化される。



さて、これは不公平だろうか?



つまり、東大、京大、早慶、地帝、、、、、というようにランク付けを行ったとしても、偏差値が50を切るような大学でも東大の人間を凌駕するような発想が生まれることはあるというのに、履歴書に書かれた経歴で人が判別される側面があるということ。これは不公平だろうか。経歴などは一切無視してその人の個性を聞き出すことで何とか人を測ろうとすることが一番の公平だろうか?



これの答えに正解などないが、自分の意見は、後者が公平だというものである。しかし、ここに隠れる欠陥にも目を向けないといけない。



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分かりやすく、ABCと三つの店がある街を想定してみる。Aは食糧販売、Bは衣服販売、Cは住居販売をメインにしているとする(分かりやすく衣食住にした)。この町で育つ人間はどこかに勤めないといけないとなった時、この町の若者は悩むだろう。衣食住のどの業界にしようか、と。


雇う側も、その販売において能力が長けたものを採用したい。販売に回る際の言葉遣いが上手いとか、経営戦略を考えるにおいて賢いとか、そういった人間を雇いたいと思うのは当然だ。だから若者のそうした能力を見定めることが大切だろう。これは学歴だけでは測ることのできない基準である。


もしもこの基準だけで人を雇うことができ、それで若者がABCに分配されるなら、何の文句もなしにここは平和で公平な街と言えるだろう。しかし、これだけでは理想論が過ぎる。どこに欠陥があるだろうか。



一つ目は、先ほど言った「そうした能力を見定める」ということを、短期間の会話で行うのには限界があるという点である。実際に働いてみて開花する能力だってあって良い。なのに「あなたはどんなことをしてきましたか」という質問だけでその人の能力を見定めるのには限界がある。だったら、その人がどんな大学を出たかという分かりやすい基準の方が断然楽である。高い偏差値の大学を出たという事は、その人物の全てを肯定できるほど完全な保証ではないが、少なくとも「あの入試を突破したことがある」ということは確実なので、そうした人間を選んでおいた方が失敗はないというのはごく自然な発想だ。



二つ目は、ABCのどの業界にも興味がないという学生を無視しているという点だ。例えば自分は文章を書くのが好きだから自分の書いた本を販売したいという若者(以下、X君)がいても、そうしたことを行っている先人がいなければそれは前途のない道を進むことになる。ならば生活の安定をとるためにABCのどこかに就職するよりほかにないが、X君が好きなのは本を書くことなので、ABCのどこにもその能力を発揮できなさそうだという事実により就職が困難になるとしたら、それは不公平なことと言っていいかもしれない。



さてここで、資格の話に戻る。資格とは、この二つ目の欠陥を補うために存在するものではないだろうか?



もしこの街に、○○大学を出ていた場合にはA店への就職を優遇します、というような制度があったときに、○○大学出身という経歴はAで働くにあたっての資格としての意味を持ち、これなら本を書くのが好きなX君も○○大学に入るという比較的達成しやすい方法でこの町に適合できる。そうすれば、本を書くのが好きだった経験を生かして広告を作成する担当になる、など、働いてから開花するものが見えてくるかもしれない。




もちろんこの日本がここまで単純なシステムで語れないことは重々承知だが、しかし、資格というものにはこのような救済の意味も含まれているのではないか。




こう書くと言い方が悪いのだが、「この社会で発揮できる能力に恵まれなかった人たちにも最後の助け舟が出せる」という意味で、資格というものがあってもいいのは間違いないと思う。



そしてこうした場面を生きるうえで「意味の世界」に逃げ込んできたのが人間という生物なのではないかと思う。



人は常に資格を追っている。どこで働くとかどの大学に入るとか、そのグレードを競う生き物にいつしかなった。その競争で優位に立つ一番の分かりやすい方法は「勉強が出来ること」である。しかし学校での勉強が嫌いな人間はこの競争が苦痛で仕方ないはずだ。だから、先ほどの例の中でのX君の立ち位置のような人々は真っ先に何かの資格を追うしかないのである。資格というのはそこにあるだけで社会への適合を認めてくれるからだ。しかしその資格を得る段階も決して楽ではない。そこで登場するのが「この我慢は人生において大切」とか「あの資格を得られれば人生安泰」というような、今我慢すればせめて将来は報われるという今には分かりもしない願望である。



そんな願望にすがるくらいなら資格を追うのはやめたらどうだというのが今までの自分の意見だった。万人には突出した何かの能力がある。現社会に迎合していなくともその「好きなこと」を追うことが本人にも一番いいと思うのだが、しかしそれでは生活の安定がどうしても危ぶまれることが多々あるのは仕方ない。そこで僕の以前までの「資格、レッテルを追うのはやめよう」という意見が蔓延ると、X君の最後の頼み綱も奪ってしまうことになるということに自分は気が付いてこれなかった。



この企業に入れば安泰とか、この大学に入れば問題ない、みたいなことを真顔で言える人は正直きついけれど、それでも何か資格を得ようとする行為の全てがなくなることは断じて防がないといけないと思う。



題に答えるなら、資格とは困った人のためにある。それは他人かもしれないし、自分かもしれない。