集団からの撤退と始動

新年度になり、気持ちは不思議と安定してきている。


大学生という身分が消えたことで、何者でもない自分をぼんやりと俯瞰する。今まで1500円で見られた映画は1800円払わないといけなくなるし、学生証を見せると100円引いてくれた近くの定食屋での割引はもうしてもらえない。そういった些細なことはどれも、小さな息苦しさを味わせるには十分だ。


数か月前までともに大学構内で言葉を交わし合っていた同級生も、今は大手の会社で働いている。もちろん、就職はしなくとも大学院に進学して研究する人たちもいる。そうした人たちに比べると自分は何をしているのだろうかという疑問が完全に払拭されることはない。



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自分が自分に重なり合う瞬間を見つけるために、書いて表現し続ける意志をこの記事で表明した。その生き方に、今自分は何の疑問をも見出していない。誰にも馬鹿にされるはずなどない、尊重されるべき一つの生き方だと思っている。



しかし上に書いたとおり、後ろ盾のない自分の身分には疑問がある。恥ずべきことなどないと心から思っている自分の生き方にそれでもまだ疑問があるのは、自分が他者の視線の中に生きているからに他ならないと思う。



僕が嫌悪の情を抱くのは、自分の選択に対してではなく、自分の選択が社会から逸れる者に向けられる視線の中に溶け込んでしまうことに対してだ。「そんなことをして、その先どうするんだ」という疑問を他者にぶつけられる自分を想像しては辟易している。どんなに自分の中では信頼のおける一つの選択をしたとしても、周りから見たときに「うん、お前はその道で大丈夫だろう」という他者からの視線の中に入り込む余地がない。今はそう言ってくれる親や彼女だって、その説得には労力がかかった。



だから基本的に、今の自分はセンチメンタルになっている。とにかく、他者からの評価に触れたくない。なるべく、社会からは撤退したいと思っている。



しかしそれは、自分は社会に貢献したくない、という意味では全くない。むしろその逆で、この先も社会への貢献を模索したい。しかしそれは影からひっそりと行いたいものであって、メディアやSNSなどで注目を浴びたいというような欲が一切ないということだ。これを自分は「撤退」と表現している。



大学生の身分が消えたとき、自分はうまくその撤退の一歩目を踏み出せたようで気持ちがいい。研究室に行って「進路はどうするの」と聞かれることがない。部活に顔を出して「あの先輩は今何をしているんだろう」と疑問に思われることもない。全ての集団の中で自分は過去の人として処理されることが嬉しくある。



僕にとって、「京大生」という身分は不幸だった。



人間は、全生物の中で唯一、意味の世界に生きることができる。だから我々は一つ一つの言葉に、各人の持つ理想と概念を吹き込んでいる。「京大生」という言葉は、将来への希望であふれる言葉だと思う。一流になって欲しいという家族からの期待に応えること、いかに収入の高い職へとたどり着けるかのレース、それらが得意な人間が称賛される世界が似合う言葉。そのくせ、仕事ができなかったりコミュニケーションが思うようにいかないと「京大生でもこれか」みたいな反応になる。馬鹿言え。京大生という言葉の意味は、京都大学にいる/いた人間、というだけだ。それ以上に意味なんてない。



それがすべて消えた。とても幸せだ。肩から力が抜ける。



しかしすべてを環境のせいにするのは甚だ傲慢だ。僕が息苦しいのはあなたたちの視線のせいだ、なんてことを言いたいわけではない。僕は僕で、人生を相対的に捉えてしまうことに不幸の一端が隠れている。



だって人生なんて、絶対値だけでよかったのだ。



この人が好き。この仕事が好き。ここで暮らすのが好き。



その気持ちの一つ一つは、それがそこにあるだけでいい。なのに、他者が目に入る。情報であふれる社会ならなおさらだ。



あの人が好きな人は、自分よりもスペックが高い。あの人の仕事は、自分よりも給料がいい。あの人が暮らしている家は、自分の家の二倍も広い。



そうした一つ一つの事実が、少しずつ誰もの心を蝕んでいる。例外などない。どこまで人生を突き詰めても、自分にないものを他者が持っていることは苦痛だ。その苦痛は絶対的な概念からは発生し得ない。その苦痛となんとか折り合いをつけないといけないことは誰もが知っている。でも難しい。自分が努力しても持ち得なかったものを他者は簡単に所有している。他者がいる限り人間は不幸だ。相対の監獄から完全に逃れることは不可能だ。



似たことを思ったのを思い出す。自死遺族の会に参加した時だ。一年半ほど前だったと思う。会に参加したなかで、そのことを後悔している人がいて、聞くとこうだった。



「不幸比べになっちゃいます」



そうだなあ、と思った。各々の喪失に各々の名前があっていいはずなのに、それを自殺という言葉で統制されるから苦しい。なのにそうして言葉で統制される割には、自分よりも凄惨な他人の事実を知ると、自分が小さい苦しみにここまで悩んでいるのかと思わされることがある。だったら他者を知ろうとしなければいいというのはご尤もだが、しかし苦しみを共有できる可能性に賭けてそうした場に向かうことは勇気のいることだ。その行動まで否定するのは筋違い。



同じ苦しみを持つ人ならそれを分かち合えるというのは嘘だ。同じ苦しみを持っているからこそ、その相互間の僅かなずれが余計に許せなくなる。だったら似てなどいない他人を似ていないものとして認識して手を差し伸べ合う方がはるかに健全なのかもしれない。




集団のメリットよりも、こうした集団による相対的なデメリットに向き合ってきた自分は、集団の恩恵をいつの間にか見失っていた。その先にたどりついた感情が「京大生という身分が消えて気持ちいい」だ。なんて悲しい人生だと思われるかもしれないが、事実なので仕方がない。どうかしよう、とも思わない。