男性にとって女性は”報酬”なのか【後編】

前回の記事の続きです。

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前回、セックスやジェンダーにおいて起こる加害と被害の関係を完全に取り除くのは不可能ではないかという話をしたところだった。加害者には「享楽を与える者」としての側面があることは認めなければならず、その恩恵は我々も少なからず受け取っているはずなのだ。





さて、突然だが僕の話をする。


僕は女性関係に慣れていない。中高一貫の男子校を卒業し、大学の学部にも友達はおらずにサークルなどにも所属していないため、女性関係はほとんどが部活動のものだった。女子の部員は非常に少ないため、女子の後輩は人生で三人しかいない。


こんな環境でウェイウェイ出来るはずもなかった。高校の時に小学校からの知り合いで好きな子はいたが、「好きかなあ」と言っただけで逃げてしまった。さぞかし相手からしたら気持ち悪かっただろう。


こんなシャイだった自分が、性に関して大胆なことをできるはずがない。性のテーマに関して言えば、人生で女性を不快にしたことなど一度もないはずだ。そんな気持ち悪い告白をしておいて、という異論は受け付けない。


そんな自分にも、晴れて彼女が出来た。こんな自殺のことしか考えていないような根暗には奇跡のような出来事だ。その彼女がかつて付き合っていた人間が最悪だった話は前編でもちらりと触れていて、そこに自分は不快感を覚える。簡単な話、自分の最も大切にしている人を傷つけた男なんて好きになれるはずがない。


例えば他人の恋愛話を聞いたりするときに、恋人がいるが他の異性を家に上げたみたいな話を聞くと、その感情と行動の理解に自分は最も苦しんだ。どこからが浮気なのか、みたいな話をしたいわけではないが、「恋人以外の異性を家に上げる人間」と「恋人以外の異性を家に上げない人間」を比べたとき、恋人の視点からは後者の方が絶対に嬉しいのに(これはさすがに文句ないだろう。全人類そうでは?)なぜそれをしないのかということが理解できなかった。


こうしたことは、天秤にかけた際にどちらが重いのかという話で説明できるだろうか。


人間はつまるところ子孫繁栄の能力に最も長けた生物であり、その進化の本能に従うなら、男性は多くの女性に自分の遺伝子を残したいし、女性はなるべく美形の男性を側に置いておきたい。しかし進化の本能に従いすぎると問題が起きる。現在恋人がいるのに他者と不適切な関係を持ってしまうとか、はたまた、彼女がその気でないのに性交渉を強要してしまう、とか。そのように進化を重要視した際に崩れるのは、愛したかったはずの人間との信頼関係である。


だから人類は常に、「進化の本能」と「ある一人の人間との愛」を天秤にかけている。自分は真っ先に後者が勝つ人間だった。それは性欲の衰えた男、という意味ではない。進化の本能も他の人類とほとんど変わらないはずだが、しかし性欲を他者で埋めようとする行為や、まわりに多くの女性を置いておくことで安心感を得ようとする行為は、彼女との信頼関係には何があっても勝てない、というだけの話である。


ここまで書いたが、自分を決して聖人だと主張したいわけではない。結局のところ、自分がこうなったのは自分が女性関係に疎かったためで、もし幼少期から橋本環奈級の美人にすり寄られ続ける人生を歩んでいたら、たぶん今と考え方は大きく異なったと思う。


さて、こんな話も長くなると恥ずかしい。まとめると、僕は女性に対してセックスの加害を全くしてこない人間だったということだ。それだけの説明のために、ここまで自分語りをした。


※女性を傷つけない人間だった、という話ではないと断っておく。言葉遣いで女性を傷つけてしまったと思ったことは何回もあるが、それは女性に限った話ではなく、セックスの話題ではない。



しかし前編で、このようなことを言った。

ジェンダーに関して言えば「お母さん食堂」というネーミングを排除すること、セックスに関して言えば結婚まで性交渉は禁止するという決まりを作ること、などが考えられるが、これは最善策ではない。なぜなら、それは加害の恐れがあるもので楽しむことができている人間の享楽までもをすべて奪うことになるからだ。


つまり加害をしないことと、人から楽しみを奪うことは紙一重であり、加害をしないということは褒められることでも何でもないということに自分は気が付いていなかったように感じる。暴力をふるう人間は最低だが、暴力を振るわないことは褒められることではないのと同じで、ヤンキーに絡まれるようなことが皆無な人生で暴力を知らずに育った人間が偉いわけでは決してないのである。



つまり、「恋愛」という名のレースにおいて、他者の女性に対して加害的な何かを行わないという自分の功績が有利に働くという勘違いをしたまま自分は生きてきたのである。でも考えてみたら当たり前のことだ。女性が性的に不快だと感じるようなことを一切しなかったとしても、「服装がダサい」とか「清潔感が足りない」とかが理由で女性を楽しませられない男性は山ほどいる。性的に不快にさせる男性は端からそのレースに参加する資格がないだけであって、レースに参加する資格があるということとレースで上位に入れるということは全く別の事柄だ。



この勘違いを是正しておかないと、男性にとって女性は報酬になるのではないかと感じる。



つまり、この勘違いを放置していると、「俺は女性にこんなに親切で傷つけたりしないのに、どうしてあんなチャラチャラしているヤツはモテるんだ」という疑問が、一生解決されない。すると女性を加害しないのに女性からの人気が出ない自分が惨めで不遇に感じ、そのタイミングで彼女が出来ても「やっと自分の価値に気が付いた女」というように、報酬としての意味合いが出てしまう。これは、彼女の元カレに対する僕の不快感とも大きく一致する。



では「俺は女性にこんなに親切で傷つけたりしないのに、どうしてあんなチャラチャラしているヤツはモテるんだ」の答えは何かといえば、「加害しないことと楽しみを与えることは別物であり、一切の加害をしないことは一切の楽しみを与えないことでもある」からだ。全人類、加害のリスクを負って他人に享楽を与えている。そのリスクの使い方が上手い人間が恋愛のレースでは上位に入るのだ。リスクを負わなければ上位には食い込めないし、そのリスクの使い方があまりに下手だと、そのうちレースへの参加権を失う。それだけの話だ。



「人を愛することと信頼関係」という名目での恋愛レースには、彼女の元カレの参加権は初めから無かっただけというだけの話であり、この事実に僕の人間的な価値は一切付与しない。「恋に恋しちゃう一時のもの」という名目での恋愛レースから彼女が戻ってきてくれたおかげで、今の二人の関係があるというだけだ。そのレースの順位では、僕は相当下位にいるはずだが、それでいい。



断っておくと、今言ったこの二つのレースのどちらかに優劣の関係があるとは思わない。先程天秤の話を出したが、「進化の本能」が勝つ人間はそうした人同士で一夜限りの関係を続けるのが最善策だろうし、「愛する人との信頼関係」が勝つ人間はそうした人同士で一生愛し続けるのが最善策だろう。天秤にかけてどちらが勝つのかどうかで人間の価値など決まらないとは思うが、問題なのは、この両者が出会ってしまった時である。



進化の本能が勝つ人間の加害は、進化の本能が勝つ人間にとっては享楽だが、愛する人との信頼関係が勝つ人間にとっては被害となることがある。このセックスの話をジェンダーに置き換えた話が、お母さん食堂なのかもしれない。お母さん食堂の恩恵を受けられる人の前にしかお母さん食堂を見せないというのが最善策だが、そんなものは現実味がないから難しい。



女性って難しい、と男性視点の僕には思えるのだが、しかしそれは逆も然りだろう。



とにかく一つ言えるのは、今の彼女との関係があることで間違いなく自分は幸せであるということであり、当分は、それだけでいい。