嘘つき人間。

今でもよく覚えている。高校一年生の時、火曜日の一時間目は世界史の授業だった。



火曜日の朝、高校の最寄り駅についた時、僕は欠かさず行う一つの習慣があった。改札を出る時に駅員窓口を一瞥し、どこかの路線が遅延したことを証明する遅延証明書を探し、もしそれが一枚でもあるなら、自分が一回も使ったことのないような路線のものでもそれをもらった。



始業の時間に間に合わなかったことは、高校三年を通じて一度もなかった。でも僕は、火曜日の一時間目、どこかの路線の遅延証明書がもらえた日には必ず意図的に遅刻した。教室には向かわずに、図書館へ行く。そこで、数学の授業で出た課題なんかを一人で黙々と問いていた。そして一時間目が終わる10分前くらいになると、電車の遅延ですいません、なんて言って平然と教室へ入る。遅延証明書さえあれば、遅刻は消える。どの路線とか詳しく聞かれれば僕は答えられないし、そういうことを二週間に一回ほどやっていたので遅刻が本当か疑われても当然だったが、世界史の先生はゆるかったので、大丈夫と踏んでいた。結果、高校一年生は皆勤だった。



僕は、理系科目に全振りしたような頭脳だった。受験は理科と数学で勝負、英語や国語は捨てる。社会?何それ。みたいな生徒だった。



そこまで傲慢な生徒ではなかった(と思う)から、「世界史は学んでも無駄!」などと思ったことは一度もない。歴史を学ぶことには多大な意味があると思う。歴史を本気で専攻する人もかっこいいと思う。でも、日本の歴史ですら嫌いだった僕は、世界史になってカタカナになった人名を覚えることに全く楽しみを見いだせず、定期試験で赤点を取らないことに心血を注いだ(だけど半分くらいは赤点だった)。



理系なので高校二年生からは世界史を選択しなくて良くなるのに、この高校一年生の時間に世界史に真摯に向き合えるほどの理由が僕にはなかった。何度も言うけれど、世界史を馬鹿にしているわけではない。学んだことで得られる経験は大いにあることは分かっているけど、それでも、世界史は数学の足元に及ばなかった。



嫌いな科目でもやらなきゃだめだと、周りの人間がそう言うことは分かっていた。間違いない。毎回赤字で4と書かれた成績を見た親もさぞかし不安になっただろう。7ぐらいの成績はつけてくれた方が安心したかもしれない。



でもそうした意見に触れるたびに、僕は思った。この高校には自分の意志で入学したが、しかし高一まで世界史を学ばせてくれと頼んだ覚えはないし、時間割も決めるにあたって僕の意見など何も反映されていない。上の人間が決めたものに無条件に従う理由が僕には見つけられなくて、「ちゃんとやれよ」と言ってくる同級生のことも、「何も考えずに従っているだけのバカ」くらいには見下していたかもしれない。



今思えばまあ、未熟なんだけど。



でも、無理なものは無理。エカチェリーナとか覚えるくらいなら、数のパズルをやっている方が楽しかった。



**************



こうしたことを続けると、自分の気持ちに嘘が付けない人間になった。よく言えば正直者になり、悪く言えばわがまま星人になった。



以前、こんな画像を見た。



f:id:mattsun0383:20210317133831p:plain



こんなことが平然と起こるのなら就活なんて嫌いだ。気持ち悪い。



落としたいならとっととその場から帰してあげなよ。落とすことに罪悪感を感じて「ごめん」と感じるくらいなら人事の担当には向いていないし、申し訳ないなんて思っていないなら「ごめん」なんて言わなければいい。「話した感じ、あなたはこの会社とはマッチしないと思うので、ここで落としますね!」と笑顔で宣言した方がはるかに健全だ。



きっと、こんなことを言われた時の咄嗟の対応力を見たいのだろう。でもその対応力というものは、自分に求められる演技に対する期待をいかに裏切らないかということで、そんなことを続けると、そのうち自分の本質とは解離するのではないかという疑問と恐怖が自分には拭えない。



就活は、本当に地獄への道だと思っている。僕はまだまだ自分がかわいいだけのお子様なので、この道には身を投じない。



しかし、その決意にはいつか限界が来る。それはそうだ。就職しないなら金が手に入らない。いつか、飢えて死ぬ。



そこで、次のような魔法の言葉の登場だ。



「生きていくためには、仕方ない」



さて、生きていくことは、いったいいつから”目的”になったのだろうか。



**************



就活とあの頃の世界史が、今自分の中で驚くほどに重なっている。



世界史をサボることによるデメリットは少ないが、就活をサボることによるデメリットは多大だろうという指摘があるだろう。しかし、別に僕は、世界史をサボって行っていた数学の課題に何か将来のためのメリットを見出していたわけではない。ただ数学の問題を解くその時間が快楽だったからだ。



こう思うと、本当に嘘が付けない人間になったと思う。だからこんな僕の性質に対する反応は、僕がいる環境で大きく二分化される。



彼女は「もっと自分を大事にしていいんだなっていう考えに気付かせてくれた」と言って僕に接してくれる。でも女子部のコーチは「あなたと話すと論理的で苦痛」と言ってやめることになる。こう見ると極端だ。なんか面白い。



こんな小さな人間関係の中で話が終わるのなら簡単だが、しかし今、僕の信念の敵は「社会」になりつつある。



こうやって金にもならないブログを書いているのも、何のためだと馬鹿にされるかもしれない。僕が今金を得る手段は書くことだけだが、しかし金を得るために書いているわけでもない。ただ、自分が自分であることをやめないために書いているだけだ。それが金になるのかなんて分からない。



正直に生き続けた先に何があるのかを僕は見たい。それは生きるためにすることではなく、生きたうえでしたいことだ。これくらい正直でいられる自分しか、僕は愛せない。



本当に、困った人間だと言われるかも。そりゃあ、我慢して世界史を学べる人間を”善”とする社会なのだから。


だったら、悪目立ちしてやりたい。