死にたくて生きたい。

カーテンレールにもやい結びでたこ足をくくりつけると、私の気はとても和らいだ。首さえ通せばここでいつでも死ねるという安心感と、今まで自分の一人の空間として大事にできた家の空間を、自分だけの処刑台にできたような満足感。死にたくなったらいつでもここにおいで、そう言ってくれる空間を、人間の力なしに私は見出した。他人に期待することに、ひどく疲れていた。



他人に期待するな、なんていう方がおかしい。



自分の熱量と同じだけのものが帰ってこなかった時に寂しいと言えば、「人に期待しすぎ」「0か100かしかない人だ」「見返りのためにやってきたのか」と、期待はすぐに否定し摘み取ろうとするくせに、いざ死のうとすれば「頼ってくれ」なんてことを平気で言うのが人類だ。ほっとけ、生涯。



私が死にたいと言うと、いつも彼氏は側にいてくれた。楽になりたいの、と号泣しながら言うと、「俺だって楽にしてあげてえよ」と、号泣して答えてくれる。共感という言葉をそのまま形にしたような、素晴らしい彼氏だ。



「でも、俺にはお前が必要だから、離せないんだ」



そう彼が言うと、私は死んだら最愛の人にとって悪者になることがはっきりと理解できて、何とか死ぬのをやめる。私が死なないのは、いつだって、自分のためではない。死んだ後の私の遺体を、最愛の人に喜んでもらえないからだ。



彼氏は明日から一週間、地元に帰省する予定があった。説明は難しいけれど、でも彼のいない状況を思えば、私はやりようもなくしんどかった。大学の卒業前なのに誰とも会えず、過去のフラッシュバックに悩まされる日々に、私は必死の思いで、彼に頼んだ。



「ご家族のことがすごい大事なのは分かるよ。でも、私、今はすごい命が危険なの。今は、そばにいてくれないかな」



彼は、困った顔をした。「ごめん、帰省するのは前から決めていたから」と、固く譲らなかった。それはもちろんそう、申し訳ないという気持ちも当然ある。それでも今一人になるのって、なんか違うの。そう言う声も虚しく届かなかった。私はこの一週間、彼なしにどう過ごそうかを必死に頭を働かせては、次々と出てくる現実味のない案に、自分を否定し続けた。高校の友人に会いに行くとかよりも先に、ホストに貢いでみたらいいのかな、なんて考えていた。私の顔なんてすぐに記憶から消える人間にしか、これ以上愛されたくなかった。



「これ以上、俺のことを悪者にしないでよ」



そばにいて、と私が頼み続けた先に出てきた彼の言葉に、耳を疑った。私の命の危険の訴えは彼にとって、悪者にされることだったらしい。誰も悪くない事なんて、二人とも分かりきっていたはずなのに。



「君とはいつでも会えるけど、家族と長く会えるタイミングだってもうないんだ」



―――いつでも会える―――その言葉が深く胸をえぐった。今にも気を許せば自分を殺してしまいそうなこの状況で、彼はまだ私のことを「いつでも会える人間」と認識していた。私は余命宣告されたような気でいるのに。今までさんざん支えてもらったはずの彼だけど、「じゃあ私が死んだら、いつでも会える人間じゃなくなるよね」と心に浮かんできたのはごく自然な発想だったと思う。でも、言葉にはできなかった。だって、彼のこと、悪者にしちゃうもん。



最終的に、私が折れた。彼を悪者にはできなかった。彼が帰らなかったら、親御さんが悲しむのだって分かる。それだけ多くの人を、私の心理状況に巻き込み切る自信は、持ち合わせていなかった。



話も終わって、シングルベッドに身を包む二人の距離は異様に近い。しかしこの近さが苦痛だった。いつも癒されてきたはずの彼の匂いは、明日からなくなるものだと分かっているだけに吸えなかった。鼻の嗅覚細胞のどれもがそれを覚えようとするのを、やめてくれと心で叫ぶ。



寝られなかった二人は、ただその暗界を見つめた。彼氏の見つめるスマートフォンから出る光が、眩しくて、それに映る彼の顔からは、悲壮感なんて1ミリも感じない。この世で怒っているのは私だけだ。SNSからも目に入ってくる全員の日常が、今の私にとっては凶器だ。それからは目を逸らして、それでも唯一信じられた彼も、限界がある。彼の帰省を止めるほどの権利は、私にはない。



ふと、私がもし白血病だったらな、と思う。もし私がいまここで吐血でもして、体を震わせて苦しみだしたら、きっと彼は救急車を呼んでくれるし、搬送にも付き合ってくれる。たぶん――本当にたぶんだけど――帰省もやめて、私のそばにいてくれるんじゃないかな。

 

だとしたら、心というものの伝わらなさに、無力感がひしひしと押し寄せる。言葉なんて、ちっとも役に立たない。私という現象が、他人にはどうしても届かない。ウイルスにも細菌にも人間は耐えられないけど、抑うつ気分にはなんとか耐えられると思われているんだと思う。薬なんてないのに。あなたが今側にいて、ふとした衝動を抑えずに抱きつけることが一番の薬なのに。



でも、それは違うということをはっきり知らされる。私にとっての薬はそうでも、他人にとっての私の薬はいつだって、「私が私の力でどう気持ちを変えるか」だ。



届かない………。心の動きに自由な解釈なんて、はなから必要なかったんだ。自由な解釈で、私を苦しめないで。声帯を決して震わせることのないこの叫びも、意味なんて全くない。



すると、彼のスマートフォンに着信があった。静かな部屋の中に、木琴を叩くような愉快なポップ音が響き渡る。どうやら、彼を飲み会に誘う電話のようだった。私は息を殺して、画面越しに聞こえる声に耳を澄ましていた。



『まあまあ、○○(彼の名前)も来いよ』


「そうですねー。検討します」



彼の無頓着な返事に、涙が出そうになるのをまたまた堪える。



この状況で、彼に私を置いて飲み会に行く気がないというのは完全に理解できる。そして飲み会を誘ってきた人間を不愉快にさせないようにという旨で「検討する」と言ったのなんて、完全に分かりきっている。



でも、彼は絶対に断ってはくれない。いつでも彼の目に映る世界はフラットだ。誰も傷つけないそのフラットさに今まで救われてきたはずなのに、そのフラットさが今では果てしなく苦しい要因になる。「彼女が今やばいから」とか、そんな理由まで詳しく話さなくていい。「ちょっと今日は行けません」というその言葉が、絶対に彼の口からは出てこない。



やんわりと断る彼だったが――むしろ、やんわりと断るからこそだが――飲み会への勧誘の言葉はさらに続いた。



『んなこと言ってないで、早く来いって。○○さん、そんな先輩ぶっていい人じゃないっすよ』



相当酔いが回っているのだろう。彼の後輩の失礼な言葉遣いに、電話越しで他の人の笑い声も響く。



「いや~、そんなこと言う後輩のとこには、行きたくないなあ~」



電話で答える彼の声はどこまでも呑気だった。



頭がかち割られそうだった。



なんで??



今すごいピンチだから私のそばにいてって言う言葉には困った顔で「悪者にしないで」と言うくせに、飲み会の誘いはどうしてはっきり断れないの? 飲み会の勧誘より、私の援助希求の方が、あなたを悪者にしているの? 




なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで




あなたは私が頼れる最後の命綱なのに、どうしてそんな命綱の価値を軽んじる人間の前でだけそんな呑気な笑顔なの? 私が頼りにしたい命綱ってそんな人間? 今は側にいるよって言って、そっと電話も切ってくれる強さは、私の前では必要ないの………?



気付くんだろうな、と思った。もしここで私が死ねば、彼の前で言葉にできないこの私の思いの節々が。彼の今の行動が私の死にたい気持ちに直結するって知ったら、この呑気な笑顔はどんなふうに歪むんだろうか。そしたらこう言うのかも。「困らせないで」「悪者にしないで」って。





彼が嫌いだ。





正確に言うなら、私のせいで困る彼は、嫌いだ。




だったらもう地元からなんて返ってこなくていい。「困らせないで」って頼まれるくらいなら、一人でいい。




彼のいなくなった一人きりの部屋が、心地良い。私は今、誰のことも困らせずにすんでいる。




そう思うと、私はなぜだか笑顔になった。私、やるじゃん。一番大事な人を、悪者にしてないよ。電話の着信が来た時に、親御さんから「お寿司何食べたい」って送られてきてるのが見えたよ。私の援助を振り切って行きたかった帰省だもんね。お寿司も、おいしいよね。



お寿司を食べている彼の幸せそうな顔が思い浮かぶ。それだけでハッピーだ。彼は悪くないもん。彼を困らせない選択をした強い私、褒めてあげてもいいじゃん。



そんなことを考えていると、気が付くと私は窓際にいて、たこ足配線を握って首を通していた。カーテンレールは、意外と頑丈だ。私の体重を支えても、すこしの音すら立てない。



首を絞められるのではなく、あごを下から持ち上げられるような痛みに、体の意識がすうっと遠のく。



臀部に、衝撃が走った。



カーテンレールは、無様に折れていた。



尻もちをついた無様な体勢で、正面を見据える。



なんだ、生きたかったんじゃん。



涙が止まらなかった。涙の通り道が頬のカーブを締め付ける。私の顔を締めるのは、こっちでいい。涙に血に、生きている証拠に顔を縛ってもらえる方が嬉しいんじゃん、私。



せっかく蓋をしてきたはずの感情があふれ出すと、それは止まらない。生きたい箱の生きたい蓋が、完全に開いた。