心配されることへの”抗議”

「人に心配をする」という感情がある。


知っている人が事故にあったりなんかした時に、その人の安否や状態が気になって「大丈夫かな、無事かな」なんて思う。この感情を、我々は、他人を思いやる素晴らしい感情だとして教育されてきた。


しかし自分の身近に「自死」という事件が転がってきた時から、僕はこの感情とそれに対する世のイメージに対して、懐疑的な視線が拭えないでいる。


心配をしているという心情は、時に「心配してあげているのだから」という、良心ゆえに生まれた行動であることを正当化するツールとして用いられている節があると感じることがある。思いやりというものは、何か問題が起きたときにその問題の発端者を守るものとして機能していい感情だろうか。



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昨日、出身部活のコーチを辞任した話をした。

練習内容に始まり、それは僕のパーソナリティの部分にまで及んだ。それを聞いて「お前のことこんなふうに言ってたよ」と第三者から聞くたびに訂正するその労力がしんどかったため、「僕のことはまず僕に話してくれるか」と言い続けたが、「できない」と言われた挙句、「あなたは女性の話の中の感情を理解できていない」と指摘される結果となった。


彼女が第三者に話すのは、「君のことを心配しているからだよ」とある人に言われた。心配しているという気持ちなんだから、許してやってもいいのではないか、みたいな。



今回みたいな、軽いいざこざに対してなら、まだいいと思う。ただ、この考え方は結構危険だと思うし、出来ればやめて欲しい。



この理屈がもしも通るのなら、「あなたと仲良くなりたくて、これが自分のコミュニケーションの一環なんです」と言ってまず手が出てしまう人に対しても、「そうなんだ、殴られたけど、君が僕と仲良くなりたかったからという理由なら嬉しいよ!」と言って納得しなければいけないことになる。



「心配していた」に始まり、「善意で行った」という事実を個人の正当化として使うのは、まず第一に行うようなことではないと思っている。問題が起きた原因と、これから何が出来るのかという点にのみ絞って話をしないと、今後の事態の改善はない。




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突然、自殺の話に話題を飛ばす。


自殺というものはニュースにならないが、有名人の自死に関してはニュースになるし、有名人ではなくとも、ある人が自殺したという話は知り合いのあるところまで広がるだろう。その時、その自殺の原因の所在を明らかにしようとする第三者や、はたまた自死遺族を慰めようとする第三者が現れる。



やめてくれ!!!!!!!



そうした行動を、善意によって行うものとして正当化しながらずかずかと入り込んでこないで。お願いだから。



善意というものは、そこにあるだけで幸せを呼ぶ感情ではない。善意によって行われる行動の全てが良い結果につながるわけではないのに、「善意によって行動している」という事実がその人を盲目にしてさらに行動がエスカレートする。



自殺というものは、果てしなく深い喪失だ。原因さえも明らかには出来ないし、天災のように予告もなしにやってくる。それを間近に見た人に、”回復”など訪れないのだ。



善意によって行動する第三者は、基本的に盲目だ。自分には苦難を乗り越えてきた過去があって、それを他人にも適用してあげればその人も幸せになると信じて疑っていない。自死遺族に「めそめそしちゃダメ」とか「亡くなった人の分まで生きよう」とか、「亡くなった人の原因を明らかにしてあげよう」とか、そういうものを”善意”という二文字の言葉で美化して片付けないで欲しい。



こう言ってくる人たちは、自死遺族の”回復”を手助けしようとしている。大切な人が自分で亡くなったことによる悲しみを和らげてあげようとしている。



しかし大事な点を見落としている。



自死遺族も、亡くなった故人も、自死が起こる前の状態まで”回復”することなど決してない。断じてない。



もし、ある程度まで事態を受け入れられているように見えている自死遺族の方がいたとしても、それは自殺が起こる前の状態まで”回復”したわけではない。亡くなった人がこの世にいない世界を、何とか生きられる体を”再構築”しただけに過ぎない。


体なんて、心なんて、ひとかけらも元に戻ってはいないのだ。悔恨に苛まれながら、それでも生きていける体を長い時間をかけて再構築している。この再構築に、自殺をニュースでしか知らなかったような人たちは本当に関わって良いのだろうか?



だったら善意なんて言葉で美化された行動なんてなくていい。そんなもの、心配だったからと言って正しくしようとしなくていい。あなたは再構築が出来る人間だと信じたうえで、遠くで見守っておいてくれ。それが一番愛のある「心配」だ。



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人間には知的好奇心というものがある。知らないことは知りたい。秘密を隠されると、モヤモヤする。



だから、その知的好奇心を埋める動作を、人はビジネスにできる。ニュースに始まり、マスコミもそう。より多くの人の知的好奇心を埋める行為は、高く売れてしまう。高く売れるのなら、その商品は人の死であろうともお構いなしだ。人の再構築を待ってやるという価値観が、人々には大きく欠けている。



待ってください。お願いです。



一度大切な人を失ってしまったという経験をした人は、ただ待ってくれればそれでいい。どんな過酷な状況でも、お前はきっと耐え抜けると信じて心にしまって、待っていて欲しい。



何かあったと知っても有益な行動などできない状況で、ちょこまかと詮索する行為を「善意」で片づけないでくれ。



僕もかくして、再構築の途中だ。たまにふと死にたくなる中を何とか生きている。能力なんてあまり持ち合わせていないし、ペースは遅いけど、それでも何かをしたい日にはそこに全力を傾けるから。



お願いです。