人と付き合う、5%の法則

もし義務教育から「人間関係」を基準に成績が付けられていたら、僕は高校にすら進学できていないと思う。人と付き合う上で、何か重要なものが欠けているとも思う。しかし、人と一切の付き合いをしなくても良い人間はいない。だから、人間関係を構築するうえで自分が苦しまなくていいように、決めごとをおこなった。


それが、5%の法則だ。


僕は、今自分に見えているすべての人たちから、厳選した5%の人間とだけ、付き合うことにした。



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5%に入る人たちは、自分から見ても「この人となら信頼しきった関係が築けるな」と思える人間だ。自分の体裁のためにこの人と付き合っているな、と思うような人たちは、自分のネットワークから除外した(除外すると言っても、もちろん無視するとかではない。こんなことを言ったら嫌われるかなとか、そういう心配の一切をやめて断る勇気を身に着けるということだ)。




なぜここまで絞った人間関係を意識したかと言えば、原因は以下の一点に尽きる。


人間関係の失敗を正当化できなくなる場面に自分の身を置きたくなかったからだ。


これには、五年前の記憶が大きく関わる。自分で死んでしまった友人の感情に気が付けなかった自責の念。これが膨れ上がることを阻止するためには、人間関係をどうしても絞る必要があった。他人の苦しみを救えなかった自分に過敏になった自分を救うには、どうしても他人の苦しみを目に入れないことがその一番の対策となり、だったら苦しんでいる時に助けてあげたいと思う人間を絞ってその人と集中的に付き合うことが自分にとっての善だと思ったのだ。


亡くなった友人ともっと集中的な人付き合いをしていなくてはならなかったという後悔が、こうした思考につながったのだと自分は思っている。


つまり簡略化すれば下の図のようなイメージだ。


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浅く広く付き合うことが自分には向いていなかった。50%を振りまき、他人の傷を目に入れる確率が増えるような人間関係よりも、本当に大事にしたいと思える人間に100%を向けるほうが、僕は傷つかなくて済んだ。それに、こうした人間関係の方が自死は減ると思った。体裁だけで付き合う人間の数が多いほど、その人の窮地を救うような人間関係からは遠のくと考えたのである。



しかしこのような反論があるだろう。こうした集中的な人間関係を選択すれば、100%を向けた人間の苦しみはより重くなって自分に降りかかることになり、他人から感受する苦しみの総量としては、分散的な人間関係とさして変わらないのではないか、と。



その通りだ。しかしその苦しみは自分の中で十分に正当化できるから、僕には楽だった。



なぜなら、自分の大事にしたい環境の向上のためという真剣な志のもとで付き合う5%の人間との討論、喧嘩の末についた傷であれば、それは今後の両者の仲の発展において必要な過程であったと消化が可能になるからだ。



人間関係の中で病むときに、ここの違いは決定的に重要であると思う。以前いじめ自殺をまとめたときに、以下のように書いた。

学校は、将来もたらされる価値あるもののために現在は努力したり耐えたりするような場所から、現在安全に居心地よく過ごすことが重視されるような場所に変化した。つまり、何か別の価値あるもの(知識や地位など)を得る「手段」としての学校観(=未来志向で手段的な学校)から、そこにいられることにより得られる「充足」に重きを置く学校観(=現在志向で充足的な学校)への変化である。(略)学校の意味や学校への期待がこのように変化した状況において、子供が学校で安全に、快適に暮らすことを脅かすような事態は、何よりも避けるべき重大な問題とみなされる。


www.mattsun.work



これはいじめ自殺に関する話なので学校をテーマに書いているが、しかし人間関係においても似たことが言える。


他者との分散的な付き合いにおける目的は、分散的になればなるほど、その人の”充足感”に重きが置かれる。つまりこの社会において多くの人脈を持ち合わせていることこそが個人の生きやすさにつながると考える思考に陥りやすい。「俺は周りの人間に好かれているし、人脈もある」という安心感なくして生きるのは不安だろう。だからそうした人間関係の中での不和などは即ち、個人の”充足感”を脅かす事態として捉えられる。


※分散的な付き合いと書いたが、人脈を増やすことの全てを「分散的」「その場限りの充足感」と言いたいわけではない。例えばサッカー選手になりたい人が様々なプロサッカー選手に話を請う時、確かに人間関係が増えて分散的になっているが、その人のもとには「サッカーの上達のためにプロの話を聞きたい」という強い志があり、選択的な意志のもとに人間関係を広げることを手段としている。一概な分類を行いたいわけではないということを断っておく。


しかし僕の選択した道はそうではない。そうした充足感を目標にした人間関係では、充足感が脅かされた際に自分がさらに傷つくことが分かっていたから、充足感を人間関係に求めるのを諦めた。代わりに、上の引用部で言うところの「手段」的な意味での人間関係を絞って選択することにした。


どんなに少数派意見でも、部活の向上のために必要と思ったことは言う。

どんなに食い違う意見でも、親には自分の意見を曲げずに押し付ける。

どんなに好きな恋人でも、嫌いなところには嫌いと断言する。


そうしたことを話し合う瞬間は辛いものであっても、環境の向上、将来のためには仕方のないものと腹を括り、その時の居心地の悪さは将来への糧として正当化できた。もとからその場限りの充足感を目的に付き合っている人々ではないから、付けられる傷が幾分かは楽だった。



だから僕は、人間関係ゆえに生まれる傷の種類を徹底的に分類したのだと思う。その傷が、人間関係の充足感を脅かされた故の傷になればなるほど、過去の自責の念に結びつく感情となって体を支配されるのが辛く、その傷は自分の中で正当化できなかった。その傷を正当化することは、友人の自死を正当化することに等しいからだ。



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こうして選択的な人間関係を続けたことは良いことのように映るかもしれないが、それでも不器用で、己の傲慢さを感じざるを得ない場面に遭遇することが多かった。どうしてかと言うと、自分が手段的な意味合いで用いた人間関係によりついた傷を正当化し続けたことにより、他者を傷つけることまで正当化してしまったからである。


自分は選択な人間関係で付き合い、その中で自分は傷つけられることもあったのだから、あなたも真の志のためには傷つけられてしかるべきだという――もちろんこんなことを意識的に思っていたわけではないが――無意識のうちではそんな歪んだ価値観も助長させてしまったような気がする。


その結果、自分が5%に厳選した人間は平気で傷つけるくせに、95%の人間に傷つけられると過去の自責の念と結びついてひどく傷つく、そんな自分勝手な人間が爆誕してしまった。



まとめるとこうだ。


(1)自分にとっての5%の人間

重要なのは将来への志など(即ち、未来志向)。未来のために必要な"仲間"としての人間関係が意識できる。仲間との共同意識のための"手段"としての人間関係であり、これを脅かされる場面は「将来のために必要な過程」として正当化できた。そのかわり、思ったことを言うようになったことでいろんな人を傷つけることが増えた。


(2)自分にとっての95%の人間

重要なのはその場で不和が起きない事(即ち、現在志向)。充足感のための人間関係であり、これを脅かされる場面では「他者の苦しみに気が付けない自分」が想起され、正当化が出来なくなってただただ自責につながった。






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人間関係の充足感を考えたのは、最近こんなことがあってのことだった。




僕が飲食のバイトに求めていたのは「バイト仲間との連帯感」や「店の売上向上」などではなく「給料をもらう対価として労働を行う場」としての意味合いだったから、その労働を気まずくさせるような人間関係はなるべく避けたく、つまり将来の志など含まれない充足感に重きを置いていた。だからそこに対してはいるヒビは、自分にとって大きかったのだと思う。


他者は不快にさせるくせに、自分の傷は正当化しようとする自分。この構図に、何よりもどかしい思いがする。もっと器用な方法はいくらでもあったはずなのだ。



5%の法則を今後も続けていくのは変わらないが、しかしこのデメリットを打開する方法が自分の中でまだ見つかっていない。不器用で嫌になる。