3月が怖い。

厳しい寒さを終えて暖かい春がやってくるなんて、嘘だ。


卒業の時期が近づいてくると、何かモヤモヤしたものが近づく。


僕が楽しんでいいのかなという不安。あとは、それを迎えたかったはずなのに迎えられなかった人を思ったときのやるせなさ。



僕はなんで、卒業を楽しむ気でいたのだろう。ただ主要単位を取り終えて学校に籍を置かない状況になるだけだ。大学に入って勉強を頑張ったなんて至極当り前のことだ。こぞって祝い合うほどのことでもない。周りがおかしいんだ。いつから卒業にウキウキなんて感情を僕らは持ち出してきたんだろう。卒業は楽しむイベントではない。粛々と、大学から去る。それだけでいい。



しかしこう思うのは、自分を自分で追い込むことだ。



大学卒業後も進路はないのだから留年しろという親の言葉に、ただまじめに勉強をしてきただけのはずなのにしたくもない留年をしないといけないなんておかしいと、突っぱねて、卒業を許してもらった。なのに今度は手のひらを返して「3月が怖い」なんて、親は呆れかえるのだろうな。自分の気持ちを押し通せば押し通すほど、その道が辛くなった時の相談はしにくくなる。「あんだけ頼んだのはお前やんけ!」って、そりゃあなる。



自分勝手な大学生活だった。やりたいことは全部やらせてもらった。



でも世の中ではいろんな人が、いろんな思いを飲み込んでる。飲み込むのが嫌な僕は、他人に迷惑をかけるものではないならその欲求の全てを周りに示して、融通をきかせてもらってきた。転学部に始まり、留年せずに卒業させてもらうことだってそうだ。



でもその欲望は、すべてに板挟みが絡むから、しんどかった。



自殺のことは勉強したかったけど、論文の厳格な審査は、怖かった。

卒業はしたいけど、自分だけが完全な笑顔でそれを迎えるのはきつい。

一人暮らしはきつそうだけど、でも自分の手で何か生み出したい。



やりたいことを主張すればするほど、その副作用を周りに訴えられなくなった気がする。不器用というか、ばかというか。



こんな板挟みに苦しむくらいなら、建築学科でやりたいことをやっていればよかったかもしれない。気持ちに程よく蓋をしている方が良かっただろうか。



自分の気持ちに蓋をするって、実は一番賢くて思いやりのある行動なのかもしれない。



自分の奥底の気持ちに蓋をする限り、人間としての感性は豊かにならないと思ってきた。目先の職、目先の人間関係、そうしたものに目を奪わているだけの人生に何の魅力があるのだろうと信じて疑ってこなかった。



身内を亡くした人に一切の非がなくても、加害者を裁くこともできずに思いを飲み込んでいる人が今もいる。どんなクズに引っかかって辛い思いをしても、引っかかった私が悪いなんて自責に走る人がいる。



みんな蓋をしようとしている。責めるべき人間が責められず、雷にでも打たれたとでも思い込んで気を和らげようとしているのは、いつだって被害者側だ。そんな人を見ると、耐えに耐えられない。本当は、蓋をせずにもっと怒りたいのに。



本当に、孤独な二年だった。



虐げられていても、それでも「私が悪かった」なんて丸め込んで見せられる笑顔なんて、不愉快だ。自分の気持ちに蓋ができない自分の器量の小ささを指摘されているような気分になる。



初めから分かっていた。ここからは一人の戦いだ。最も怖い3月は、最も怖い人生の幕開けとして、相応しい月になるのではないかと思えた。



やっぱり親より先には死ねない。生きて生きる、がんばれぼく。