安楽死を認めるか―自己決定の観点より③―

自己決定の観点から安楽死を考えるのは、これで最後にしようと思う。前回の二個の記事をまとめると、①では「自己決定」という言葉による自己の体と心の距離の話、②では自己決定と権利という言葉の意味を深く考えた。


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今回は③として、自己決定の「能力」について考察する。


前回の記事に重なるが、「その人の発言は自己決定として認めてもらえる」と断言できるそのラインを、我々はどこに引いていいのだろうか。


本人の自己決定を認めるかという議論をするうえで、その自己決定が曖昧になるパターンは大きく分けて三通りあるのではないかと思う。

Ⅰ 本人の現在の意志が確認できるが、それは自己決定と呼べるのか曖昧な場合

Ⅱ 本人の現在の意志が確認できず、過去の本人の自己決定がある場合

Ⅲ 本人の現在、過去共に自己決定が見られず、家族などの判断が問われる場合

ⅡとⅢは、現在の患者に自己決定の能力がないと判断されたために強いられる選択である。患者の決定能力の不足は、どのように補われ得るのかを今回は考える。

Ⅰ 現在の意志あり


現在患者が「望みのない苦痛を和らげるために死なせてくれ」という意志を持っているとしてそれを自己決定としていいかという議論は、前回の記事で終えたように思う。一応まとめておくと、


①社会による他己決定という側面の考慮(迷惑をかけないための自死を防ぐ)

②自己決定の矛盾(体と心、どちらが先か)


である。これに関しては、過去の自己決定の二つの記事を参照されたい。

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Ⅱ 過去の意志のみあり


これは自己決定として認めて良いだろうか。


自分はダメだと思っている。これは自死としての死ぬ権利を考えた記事において、時間軸という言葉を用いながら説明した。


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この記事中で、このような事件を紹介した。

認知症になったら自分のことを殺してくれ」と言った父が実際に認知症となった。徘徊など様々な症状の悪化が見られたため、家族で父を抑えつけ、医師が薬物を注入して殺害に至った。しかし認知症になった父は過去の自分の約束を覚えておらず、薬物を投下しようとする医師に対して父の体は抵抗していた。それでも家族は、父の約束は変わらないとし、殺害に至ったのである。


過去の意志が現在にも適用されると認めるのならば、このケースで父の抵抗は無視しないといけないことになるが、それは傲慢だというのが自分の意見だ。記事でも、このように書いた。

人間は自分の状態であろうとも、深く洞察し正確な分析を行うことは難しい。それなのに「死ぬ権利」を訴える他人を分析し、それの時間軸による変化を無視してまで他人の死を認めるほど、そこまでおこがましい人類になっても良いものだろうか。自分はそこの一線を越えた瞬間に、本当に何もかも大事な何かを失うと思うのである。自分の今まで感じた「この世から消えたい」も、時間軸の変化に許容されたおかげで、今があるのである。許容されていなければ、今自分は生きていないのだ。


例えば安楽死というテーマで、もし自分が治療経過の見えない苦痛に悩まされ続けたことがあったら、きっと自分は殺してくれと言ってしまうと思う。安楽死には反対だと言っているのにこれは大きな矛盾だが、しかしその苦痛を実際に体験したらと思えば、安楽死は完全な罪だと首を縦に振れないのも、事実である。しかし、そんな苦痛にまみれた未来のことを、何も問題のない現在に想像することに、いったい何の意味があるだろうか。


老いることを若い時に語って、何を得るのだろう。この決して拭えない疑問を、自分は「自己決定」という言葉で片づけたくない。

Ⅲ 現在も過去の意志もなし


Ⅱのケースですらダメなのだから、このパターンももちろん認めてはならないと思っている。しかしこの話は他人事ではない。自分が今日事故にあう可能性はいくらでもあるが、脳死になった際の臓器移植の意志などを僕はまだ表明していない。他人事と思っていることが我が身に降りかかる日は、遠いとは言えない。


こんな時に家族の意志などは尊重されるべきか。


仮に尊重された時に、一番危ういのは、これもまた、家族の決定が本人の自己決定に一番近い形として処理されることである。しかしこれは近くとも何ともない。


もし家族が延命治療は中止して今すぐ患者を殺害してくれと頼むとき、その理由はきっと「家族である患者の苦しむ姿を見たくない」であるはずだ。でもそれは「見たくない」という他者からの視点の範疇を出ない。「家族の心を休めるために殺してくれ」という動機を「きっと患者もそう望んでいる」などと言う好都合な理由にすり替えて殺害を試みることは決して許されてはならないと思っている。


この時、患者の殺害の一番の理由は「苦痛からの解放」ではなく、「意思決定能力のある本人の不在」なのだ。解放するために殺すのではなく、(意志のある)患者がいないから殺しているのだ。


例えば会議などで見られる「あなた、何も言わないから賛成なんだと思ったわ」という意見。これは本人が賛成していると心から思っているわけではない。発語による意思表明をする本人の不在が原因で、その意志が好都合に捉えられているだけだ。これは、いくら本人に近い家族であろうとも、本人の自己決定の代わりなどとしていいわけがない。それが認められれば、もっと大きな何かが破綻する。口を開かぬものの意志を勝手に他人が操作できる時代がやってくる。


『自己決定の観点③』まとめ


以上で、自己決定に関する考察を終える。


ほとんどが過去の記事からの引用になってしまったため、ここで新たに書くまとめはないように思うが、主な論点は次の一点だ。



自己決定という言葉は、この国で流行るには早い。



口を開かぬ者、もしくは意志とは反対に違う形での演技をせざるを得ない者、そうした現象への理解がない者が「死ぬ権利」「安楽死」などと訴えるのはさすがに筋違いな気がしている。