安楽死を認めるか―自己決定の観点より②―

前回の記事に続き、安楽死を認めるうえで重要な議論になるであろう「自己決定」を考察していく。前回は、自己決定という概念を、「私自身と、私の体の間にある距離感」という観点から考えた。今回はそこに続く話でもあるので、ぜひ確認してもらえると嬉しい。


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今回の問題は、「自己決定」という概念の、本質に迫る。もちろん前回の記事でも本質には迫ったわけだが、「自分が自分の命に終止符を打つことが自己決定である」という前提自体は疑わずにその議論を進めたように思う。そのうえで、その自己決定は矛盾を含むのではないか、みたいな話につながったわけだ。


ということで、今回は、「自分の命に自分で終止符を打つ」は本当に自己決定なのか、という点を問いたい。


”せざるを得ない”は、自己決定か?


いやいや、自分の意志で決めたことなのであればそれは自己決定であろう、という人も多いと思う。こう言う人は、きっと普通の自死に関しても、「死ぬ意志は本人のもの(即ち社会に強制されたようなものではない)」と考えるタイプの人だろう。


これは、正しい。正しいというか、間違いがあると他者が指摘できない。


しかし、一つの疑問が浮上する。「自らの命を絶ちたい」は、本当に自己の本来の欲望だろうか。それは、本当は違うということに、誰からも異論は出ないはずだ。本来ならば、どんな人間も生きたいのだ。「いや、生きるより死ぬ方が楽だから自死をする」と言うのは正しいが、しかし他に自分が自死しなくてもいいような環境があるのであればそこで生きたかったという願いはあるはずである。


つまり、本来の願いは「生きたい」なのだが、身体的苦痛や先行きの見えない治療などにより「生きることをやめざるを得ない」という状況を実現するために「自己決定」という言葉が使われている節があるのではないだろうか。言葉の綾だが、自分には、これは少々都合のいい考え方であるような気がしてしまう。


例えば、小さいころから親の虐待などに苦しみ、自分の意見を周りに発することができなくなってしまったという人がいたとしよう。この人が後々社会に出て、何らかの会議などの場面において、本当は反対だったけれどサイレントマジョリティーの立場に立ってしまったとする。しかしあとから「あの時賛成したんだからちゃんとやれよ。お前が、自己決定したことだろ」と言われてしまう。このような場面に、皆さんはこれが本当の自己決定だと首を大きく振って頷けるだろうか。


これは自分の自死の研究にも通ずるところが多くあるように感じる。人々は社会での演技として”役柄”を強制されている側面があるにもかかわらず、それを「隠す」言葉として「自己決定」という言葉が使われているのである。


安楽死に関してもそれは否定できないはずだ。例えば「家族に治療費を払わせ続けるのは申し訳ない」という思いで死を選ぶことは、本当に自己決定だろうか。原因をさらに曖昧にしたところで話は進まないのは承知の上だが、もしかしたらそれは、社会による他己決定なのかもしれない。


死ぬ権利、誰が享受する?


次の疑問は、死ぬ権利はそもそも”権利”なのか、という点である。先程と同じで、その言葉自体の意味を確認しておかないといけない。


権利の実現には、必ずその利益を享受する人間がいる。○○しても良い、と言われることで、表現や活動に幅を出すことが目的なはずだ。


しかし死ぬ権利には、それがない。


患者の「苦しみから解放してくれ。死なせてくれ」という感情を権利としたとき、その権利の実現は「死」によってもたらされ、その権利の享受は即ち「ああ、もう苦しまなくて良い」という感情だ。しかし、この感情はこの世には存在しないのだ。それを思うべき時には、亡くなっているのだから。


例えば「日照権」は、部屋内に太陽光を入れることを他者の勢力により制限されないことが重要である。だから家の隣にビルが建つなんてことになった時、それに抗議できるわけだ。しかし、「ビルの建設に抗議する」は、それ自身が”目的”なのではない。日の光を浴びることで健康的に生活を送りたい、という生きながらに享受できる別の目的のために用意された一つの”手段”に過ぎない。


安楽死にはこれがないはずだ。「死ぬ」は”手段”ではない。生きながらに享受できるものを何も提供していないからだ。安楽死には医師などの第三者の介入があるはずだが、ではこの第三者は誰の何の願いに答えたことになるのだろうか。もちろん「苦しみから解放して欲しい」という願いがいかに本人から見えたとしても、しかしそれを実現することは、本来の権利ではないはずなのだ。


このように、権利が「生があってこそ享受されるもの」と考えるならば、死ぬ権利は、厳密には権利ではない。死ぬことは「何かを実現するための方法」ではない。ただ単に「死ぬという目的」であるだけだ。それをあたかも「手段としての権利」として主張するのは、もはや嘘の表現だと言っても過言ではないのではないだろうか。


だから権利として主張するものは「生きる実存が享受できるもの」でなくてはならず、それは即ち終末期医療の改善や、苦痛の緩和、ホスピスの存在などではないだろうか。


しかし、この意見には反対意見が出るだろう。確認した安楽死の四条件をもう一度見ると、

1患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること
2患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
3患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くしほかに代替手段がないこと
4生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること


この1~3が揃った患者には、「死」以外に「生きながら享受できる権利」がないことになる。つまり、議論を進め、どんなに隙間の少ないふるいにかけても残ってしまう患者がいるのだ。というか、だからこそ”死ぬ権利”、”安楽死”という言葉が生まれているわけだが。


しかし何回も言うとおり、それは「死」という単純な目的であって、「権利」では決してない。


こんがらがりそうなので、図解してみた。


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以上より、「死ぬ権利」は厳密には「死への”過程”を選ぶ権利」だ。今死ぬことを決めるのは、権利でも何でもない。



ただこんなことを言っても、1~3の条件を満たした患者に対する何かの改善策が出されたわけではないから、そこに対する課題は残る。何度も言うとおり、今回確認したのは、安易に「死ぬ権利」という言葉が乱用されることに対する警鐘である。「死ぬ権利」とは、医療による延命治療が誕生したことで死への境目を人為的に創造できるようになったために現れた見せかけの概念だ。「死ぬ」と「権利」は、結びつかない。


『自己決定の観点②』のまとめ


今回は、「自己決定」と「死ぬ権利」が言葉としてそもそもふさわしいのかという点を確認した。そのとき、どちらもいかに脆い言葉であるかと言うことが確認できたような気がする。


まとめると、

(ⅰ)自己決定の脆さ

⇒決定の全てを本人に押し付けることが自己決定か、という疑問。全ての安楽死に一律に「それは自己決定」と結論を下すことは有意味か?

(ⅱ)権利の脆さ

⇒権利は生きながらに受け取るもの。権利とは”手段”に名付けられるものであり、”目的”に名付けられるようなものではない。


となる。



特に前者は重要だ。自分が大きく安楽死に反対する理由はここにある。日本で安楽死が合法化された暁には、「迷惑をかけないための自死」が自己決定として処理される日は近いのではないかと思う。外国で安楽死が認められている国はもちろんあるが、日本とは「自己決定」に対する価値観というものがまるで違う。だから安楽死が合法化されないのは日本が外国諸国に後れを取っているわけでもなんでもない。まさに罪ではなく恥の文化が蔓延したこの国では、「自己決定」という考えは凶器になるケースが多いはずなのだ。だから言い方はとても悪いけれど、「医者や家族など周りに迷惑をかける」という理由で亡くなることが「自己決定」として正当化されるのは、この後の日本の価値観にとって最も迷惑な行為なのかもしれない。


さて次回は、自己決定の観点から安楽死を考える最後の回にする。次回では、自己決定をするにあたる「本人の能力」というテーマで話を進める。


↓次回の記事


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