安楽死を認めるか―自己決定の観点より①―

前回の記事で、日本でもっとも有名であろう二つの安楽死事件を取り上げたうえで、その判決に関しても記載した。


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くどいようだがもう一度振り返っておくと、安楽死において重要となった用件が、以下である。

1患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること
2患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
3患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くしほかに代替手段がないこと
4生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること

さて、この要件を満たさなかったものが嘱託殺人などで起訴されるわけだが、この中で最も「その条件が欠けただけなら罪にするのはやりすぎだろ」となるものはどれだろうか。



だんとつで、4ではないかと思う。医療現場において焦点を当てればそれは明らかなはずだ。1~3が欠けるものは、安楽死と言うよりも自殺と言う方が表現が近い。



つまり、重要な議論は以下の通りではないかと思う。



本人の決定さえあれば、死ぬ権利を認めていいのか



即ち、患者の自己決定はどこまで尊重されるのだろうか、という議題となる。以下ではすべて、本人の自己決定があるものとして話を進める。本人に意思表示がない場合に家族などが意志を代替するケースなどについては、別の記事にて書くことにする。


「自らを殺す」は自己決定か?


こう主張する人は多いと思う。人は最終的には全ての物事を自分で決めている。だとしたら自分の人生の終わりを自由に選択する権利があると言うのはなんらおかしいことではない、と。


しかしこれは大きな矛盾ではないだろうか、と自分は考えている。


何故かと言うと、死ぬ権利を認めようとするということは、自分の生命に対してもその権利が駆使できるということを認めながらも、それを認めた先に待っているのが「自分での自己決定ができない体になる未来」だからである。自己決定権を認めた先に待っているのは、自己決定が不可能になる姿なのである。「自己決定を不可能にしたい」と思うことは、自己決定なのだろうか? ここまで考えると、だいぶ頭がこんがらがってくる。


ここで気が付くのは、自己決定を可能にしているのは自らの生命であるという点だ。これは、心身二元論が成り立たない反証として理解しても良いだろう。心と体が本当に別ものなら、自己決定という心の用い方と自らの生命という身体的な機能は独立して考えることができないといけないからだ。


この、「自己決定を試みる心」と「その対象となる自らの体」の、どちらが先に来ているのかで、安楽死を許容しても良いかの意見は二つに割れる。


つまり...……

自己決定が出来ているのはそもそも自らの生命があってのものだろう

⇒自己決定権が自らの生命にも向くのはおかしい


生命があるからこそ自己決定が出来ていて、自己決定の否定は生命の否定につながる

⇒自己決定権は自らの生命にも向く


という具合だ。両者とも、捉え方によってはどちらも矛盾を含む。自己決定の制限は生命への冒涜ともとれるのに、自己決定の承認の先に待つのは自らの作為的な生命の終焉の許可だからである。


私の体は私のものか?

今まで見てきた議論では、安楽死賛成派と否定派の間にある微妙なニュアンスの違いは、以下のようなものではないだろうか。


死ぬ権利があると訴える人間は、「私の体は”わたしのもの”である」という考え方をする。私の体は私のものなのだから、それをどうするかは自分の勝手だろうということである。


このように捉える時の特徴は、私(の心)と私の体の間には「所持するものとされるもの」という対立構造が見て取れ、つまり両者の間に距離があるということだ。しかし死ぬ権利に反対する人間の言い分はこうではない。私の体を私のものと捉えず、「私の体は”私”だ」と捉えるのである。所有被所有の関係ではなく、ただ体と人格が重なり合うものとして自己を見ているのである。こう考えれば、死ぬ権利になかなか頷けないのも理解してもらえるのではないだろうか。



すこし話がそれるが、オードリーの若林さんが以下のような言葉を対談で残していた。

孤独と寂しいって、違うと思うんですよ。孤独って言うのは、周りに人はいないんだけど、でも自分が自分の心と噓なく対話できるなら、私自身が私と一緒にいられるから、孤独でも決して寂しくない。でもそれと反対に、どんなに周りに人間がたくさんいても、自分自身とは正直に会話できない人がいる。こういう人が、孤独ではないけど寂しい人なのかなーって。例えばママ友で会ったときに夫の地位とかでマウンティングに走ってしまう場面とかは、寂しい人が集まっているんだろうなあって。みんな自分の正直な考えとかを見て欲しいって思っているのに、それには嘘をついて、所有物としての肩書を誇ってしまう。寂しいですよね。


これを初めて読んだときに、自分は少なからず死ぬ権利を認めたくない自分の気持ちを肯定してもらえた気がして嬉しかった。安楽死を認めた世になったら寂しいだろうなという自分の漠然とした気持ちを、代わりに言語化していただいたような気がしたのである。


もちろん、死ぬ権利を認める全ての人々が、このように他者にマウンティングを取る人間などと言うつもりは一切ない。しかし、安楽死を認めた先に待っているのは、自分の体を自分の所有物と捉え、そこに対する他者の介入の手を一切拒んでしまう風潮ではないだろうか。自分がもっと子供だったら、「安楽死はいいのに、なんでリストカットはダメなの」くらいは言ってしまいそうである。法において罪だからリストカットをしないのではない。あくまで「私の体は私」だからリストカットをしないのだ。その順序を正しく子供に教えてやれる環境に、今の日本はあるだろうかと考えることを無視して安楽死を許容するのは、あまりに無謀なはずだ。


『自己決定の観点①』のまとめ


今日はこのくらいにしておく。まとめると、

(ⅰ)自己決定権は自己の生命にも及ぶのかという議論では矛盾を呼ぶ

死ぬ権利に賛成⇒自己決定の先に自己の破滅
死ぬ権利に反対⇒自己決定の制限で生命への冒涜

(ⅱ)私の体との距離感による価値観の相違

私の体は私のもの⇒所有物としての体、寂しい価値観
私の体は私⇒自己としての体、孤独な価値観


というようになるだろうか。



さて、自己決定に関してはまだまだ話が尽きない話題である。次回では、自己決定を謳った際に考えなくてはならない、自己決定という言葉の本来の意味に関する話をまとめることとする。


↓次回の記事はこちら


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