生きる手段としての”死”の提供

新年の目標として、平日は毎日記事を更新するつもりで、いた。書きたかったことはいっぱいあったし、書くことでいろいろと整理されていくことはあった。しかし、2/11をもって、終わってしまった。


敗因は、ネタ切れ。


三十くらいの記事を書いたら、意外にも言いたいことはほとんどないな、という状態になった。なので、いったんやめて、書きたいときに書くことにした。二か月も目標が持たないのかと思われそうだけど、でも書くことを無理やりひねり出すよりはいい。だったら、小説書いてみるとか、本を読むとか、やりたいことは色々ある。



そこで、読んだ本の話を今回はする。先月に買った本の中で、タイトルをちらっと見るだけでやばい本だと一瞬で分かる、そんな本を買った。



完全自殺マニュアル』だ。


完全自殺マニュアル

完全自殺マニュアル

  • 作者:鶴見 済
  • 発売日: 1993/07/01
  • メディア: 単行本



この本には、薬物から飛び降り、最後には感電などまで、考え得るほとんどの自殺方法を、苦痛度や遺体の見苦しさなどを比較しながら詳細に述べる。たしかに、この一冊があれば、自殺したいと思ったときにすぐに実行に移せるようになっている。


しかし、僕がこれを買ったのは、自死の手段を知るためではない。この本のもたらした影響を考察したいと思ったからである。


この本は1993年に発売され、その内容の過激さから15歳以下の購入が禁じられたものの、100万部を超えるヒットとなる。そしてさらに、この本がブームを迎えた時期に、日本の自殺率は増えなかった。


自殺率は10万人当たりの自殺者数で計算されるが、100万部が売れれば単純計算では100人に一人がこの本を読んでいることとなり、これに触発される人が増えれば自殺率は増えると予想しても何らおかしくない。しかしそれが起こらなかったのは、いったいどうしてなのだろうか。



あくまで僕の未熟な予想に過ぎないが、この本は、自死を生きる手段として提供したのではないかと思う。



この本では冒頭に、「今は出来ることをやってみて、すべてやり切ったら自殺してしまえばいいと思えば、気が楽ではないだろうか」と述べられている。自殺はしてはいけないものではなく、最終手段として取っておけばよいということを述べているのである。


すると、読者はこの本を読む。じゃあ死ぬときってどんなふうに死ねばよいのだろう、と。自死の方法を模索すれば一週間くらいが過ぎるだろう。この一週間の間、確かに人は生きているのである。そこで生きた期間で、感じたことはゼロではないだろう。それをまた実践する期間が出来て、その時は、「これが終わったら死のう」と、そう考えても良い。


だからもしこの本の主旨が、自殺に至る手段は厳しく苦しいものだと説き、自死は周りに迷惑をかけるものだと強調されるようなものだったら、効果は逆になったのではないかとも思う。そう言うことは、一見自殺を止める行為のように見えて、そんなに迷惑なことをお前はしているのだという意見になりかねない。これが、死にたい人を救うとは到底思えない。さらに窮地に追いやる。



しかし以前に書いた記事と矛盾する点が多くある。


www.mattsun.work



自殺した人間は叩くべきかという論点で話した際に、自分は、「自死については悪いという意見と悪くないという意見が、プッシュとプルに対応する」という旨を記した(詳しくは、記事にて)。つまり、自殺した人間自身の責任を問う行為は、必要ないとまでは言い切れないということだ。



こうした考えと合わせても、今の自分での結論はやはり、「我々は自死への批判と許容を同時に行っていくことが必要なのではないか」ということである。自死への許容が成功した例が、まさにこの完全自殺マニュアルだ。自死への批判が成功することももちろんある。結局のところ自死を食い止めたい気持ちは万人が持っているのだから。



人は、生きる手段として死を提案することも出来れば、


死ぬ手段として生を提案することもできる。



どちらが自死を指すかは、我々にも、分かるだろう。