”法”と”倫理”の重なる点はどこなのか

納得のできない判決というものがあったりする。たとえば自分の中での印象が強いものを挙げるとすれば、大津いじめ事件における判決。いじめと自殺の関係は認められたものの、責任は家庭にもあるなどの理由で賠償金の減額が起こっている。



自分は卒論で、こう書いた。

筆者がそのように感じる一例として、2020年初めにニュースなどで取り上げられた、大津でのいじめ自殺の事件が例として挙げられる。この事件では、いじめと自殺の因果関係が認められた事件であったが、家庭環境などの乱れ(両親の別居)もあったという事で賠償額などが減額されているのである(朝日新聞DIGITALより https://www.asahi.com/articles/ASN2W4S9HN2VPTIL02T.html)。
これは、「少年の(いじめによる負の)役柄を回復できなかった原因」として、ふさわしいだろうか。学校でいじめられたことで喚起させられる恥の意識を、家庭の環境によって回復させられなかったと結論を下すのは半ば強引ではないだろうか。学校での役柄と役割、家庭での役柄と役割、この様々な種類の環境を考えたときには、家庭や学校でそれぞれ別の結論があってしかるべきだと思うのである。


いじめ自殺や、本人の役割期待に関する記事については、以下を参照されたい。


www.mattsun.work
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これは、裁判官が下した判断なので、即ち法に基づいている。しかしそうした法の下に下された判断は、納得のいかない結論にならないことがある。つまり我々は、「倫理的にそれはおかしくないか」と思うのである。加害者の責任を減らして、無知の被害者側の責任を問う姿勢は納得がいかないという気持ちが自分にある。



ここで、倫理と法は交わらないのではないかという自分の思いが誕生する。自分にもこの世から消したいほどに思う人間がいるが、彼はきっと今も大学に通い普通に生きている。しかし法の下にそれが許されることはない。厚生の余地を認めながら見守るしかないのである。



ここで、「倫理」という言葉の意味自体をまず確認しよう。

人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。


余計にふわふわとした言葉になって、分かりづらくなった。守るべき、善悪、普遍的、そんなことを言われても我々にはピンとこない。だから次に倫理学を参照すると、次のようなことが書かれている。

倫理は、自らの生き方の選択に関わる。つまり、誰もが思う「自分はこういきたい」を尊重しあうことを指す。(『倫理学入門』より)


要するに、「人を傷つけない」とか「人には親切にする」というように、共同体を客体に設定してその安全を求めたものが『道徳』であり、それとは少し異なり、「自分は妥協せずに生きたい」とか「自分はゆったり平穏に過ごしたい」というように、個人を客体に設定してその選択を尊重しあうものが『倫理』である。



このように考えたとき、上に自分が書いた「法の判断に納得ができない」というものは、どう言い換えられるだろう。


いじめは、道徳に反する行為と考えられる。学校という共同体での活動にふさわしくないからだ。しかし、いじめる対象の人間の生き方などを尊重していないと考えれば、それは倫理観の欠如でもある。

そして、「いじめ裁判での判決はおかしい」と思う時、それはそう思う人間にとっての倫理の問題である。なぜなら、「いじめと自殺の関係は薄い」というような裁判の判決は、直接的に国の秩序につながる(即ち道徳的な)問題ではないものの、被害者遺族の生き方を阻害されたことに対する救済とならないからである。


これにより分かるのは、いじめ裁判の判決は、一切道徳を侵してはいないということである。いじめ加害者を無罪にしない限りは、「いじめ」という行為自体の非は認めていることになるのだから、その他の情状酌量に対して反応しているのは、我々の道徳観ではなく、倫理観なのだ。つまり、「いじめ被害者側にも責任があると考えるなんて、共同体の一員としてどうなのだ」ではなく「いじめ被害者側にも責任があると考えるなんて、人としてどうなのだ」の方が感情は近いような気がしている。



そして、倫理の訴えに法は反応をしてくれないように思う。今から親族の命を奪った○○を八つ裂きにしてくれと訴えて、分かりましたと国が動いてくれるはずはない。せめてもう少し重い罪に、と思っても、それは叶わない。未成年なら、一瞬で出てくる。




だから我々は、倫理はあくまで法を補完するもの、とだけ思っておかなくてはならないのではないだろうか。つまり、法でもカバーしきれないような範疇が確かにあり、しかしそこに刑罰を伴うことはこの国では出来ないと諦めるのである。この国、ではなく、それはきっとどこでもそうだし、未来永劫そうだろう。



それはきっと雷が落ちるようなものだ。雷は防ぎようがないし、それで命を落として「個人の生き方が!」などと倫理を説いても虚しく消える。



雷の研究が早く進まないかなあ、と思う。