"死ぬ権利"というものは存在するのか

もし仮に、ある人があなたに「死なせてくれ」と言って来たとして、あなたはどのように対応するだろうか。きっと、止めるだろう。しかし、こう言われるのだ。「自分の人生をどう終わらせるかは自分で決めていいはずで、あなたに干渉される筋はない」と。


死ぬ権利。これを認めないといけないのだろうか。自分の人生をどのように終わらせるかを自分で選択していいのかどうかという議題である。


僕は、認めてはならないと思っている。しかしそうすることは、死にたい人からしたらまさに権利の侵害だ。この権利を、僕は何とか崩したいと思ってきた。



まず、権利というものを確認するが、これには2種類ある。ひとつは、人が○○するのを援助する義務があるもので、ふたつめは、人が○○するのを妨害してはならない義務があるものである。


例えば、子供が教育を受ける権利というものは、前者に該当する。子供が教育を受けたいなら、周りの大人はそれを援助する責任があるからだ。

それに対し、自分の意見を言う権利などは、後者に該当する。つまり、誰もが腹の内を率直に話さないといけないなんて決まりはないが、誰かが自分の意見を伝えたいと思う時に、それを他者が統制することは出来ないからだ。その妨害が許されるなら、言論の自由というものが成り立たない。


これ以外のものは権利ではないはずだ。誰かが○○するのを妨害しても良いならそれは権利として成立しないからだ。




では、死ぬ権利はどちらに該当するだろうか。




さすがに、前者ではないだろう。誰かが死にたいと言った時に周りはそれを援助しないといけないとは、誰も思っていないはずである。だから、「死ぬ権利を認めろ」と言った時、その意味合いは後者になる。つまり「死にたい人の死の選択を妨害してはいけない」という意味で、死ぬ権利が訴えられる。



この意味合いで考える時、土台の考えと出来そうな事件があるので、それを紹介する。


外国において、以下のような事件があった。


認知症になったら自分のことを殺してくれ」と言った父が実際に認知症となった。徘徊など様々な症状の悪化が見られたため、家族で父を抑えつけ、医師が薬物を注入して殺害に至った。しかし認知症になった父は過去の自分の約束を覚えておらず、薬物を投下しようとする医師に対して父の体は抵抗していた。それでも家族は、父の約束は変わらないとし、殺害に至ったのである。


この殺人行為は、果たして擁護されうるものだろうか。つまり、父の約束を守るという大義名分があったために殺人が許されていいのかということであり、そして言い換えれば、「父の死ぬ権利」は未来永劫認められていたのかという話である。


この話を難しくしているのは、医師が薬物を投下しようとした際に父の体は抵抗していたということである。もしここで父が「殺してくれて、約束を守ってくれてありがとう」なんて発言していたなら、まだ後味の悪さも少なかったのかもしれない。認知症となった父の体は、殺されるということに無意識にも抵抗していたのである。



ここで、一つ我々が見落としている点があることに気づかされないだろうか。



それは、「死ぬ権利」(死ぬことに限らないが)には、”時間軸”が存在するということである。



つまり、認知症になったら殺してほしいという「健常時の父の”人格”による判断」と、医師に対して抵抗したという「異常時の父の”生物本能”による判断」の2つは同時期に起こったものではないということだ。我々が「死ぬ権利」を認めたくないのは、後者の”生物本能”による判断により自分の選択が間違っていたと知った時にはすでに遅く、命が帰ってこないからではないだろうか。



例えば、言論の自由に関する権利では、この限りではない。つまり、自分の意見を率直に伝えたときに、その後で「これは言わなきゃよかったな」と思うとか、誰か他人に指摘されたことで考えを改めるとかそういう経験になった際に、その後の改善の余地が本人には残されるという点で、「死ぬ権利」は他の権利とは一線を画するものとなっているはずだ。


もし飛び降りを実行し、地面に体が衝突するコンマ数秒前で時間を止めて、そこで「死ななきゃよかったな」となった際に取り返しがつかないのである。自分の死にたいという感情はこの社会によって作り出されたもので、自分の率直な意見ではないと後で気が付くかもしれない。しかしその時に命は確実に帰ってこない。「死ぬ権利」を認めるということは、自らの気が付かなかった一面に対する救済策を自ら捨てることになる。



だから、「死ぬ権利」を認めてしまった時には、いつ何時でも死にたいと思ったら死んでよいこととなるが、それは時間軸による意思決定の変容というありようを完全に否定してしまっているのである。飛び降りて地面に着地する前、硫化水素を吸って意識が朦朧としてきた時、首をつって呼吸に苦しんだ時………様々な地点での個人の感情の変化を無視しなければ、「死ぬ権利」というものは成り立たないのではないだろうか。



だから、もしあなたが「○○になったら死なせてくれ」と訴えたとして、その提案を合理的に遂行しようとするのなら、実際に○○になってあなたが自死を選び、そして死ぬ直前になった時に、時間の変化により本人に現れるその影響を合理的に判断しないといけないことになるが、自死を決行した本人の当時の状況により合理的な判断がなされるとは考えづらいから、早くもここで矛盾が生じるのである。




以上より自分は、日本でも、安楽死というものは認めてほしくないという気持ちがある。しかし、スイスをはじめとしてベルギーやオランダなど、安楽死を認めている国はあり、これはなぜかと言えば、「死ぬ権利」が「治療される権利」と紙一重であるからだと思う。


もしあなたが風邪をひいたとき、その原因を知ったり薬を処方してもらう権利があるから、病院に行き、薬をもらって治そうとする。死ぬ権利を訴える人の気持ちは、これに近いのではないだろうか。


あくまで自らの不幸から解放され、自らの尊厳を守ることの手段として「死ぬ権利」を訴えているにすぎないという事実が、安楽死を認める価値観を生んでいると思うのである。それは周りを悲しませたいわけでも、早死にを望んでいるわけでもない。ただ治されたいのである。




しかし、それでもだ。




人間は自分の状態であろうとも、深く洞察し正確な分析を行うことは難しい。それなのに「死ぬ権利」を訴える他人を分析し、それの時間軸による変化を無視してまで他人の死を認めるほど、そこまでおこがましい人類になっても良いものだろうか。自分はそこの一線を越えた瞬間に、本当に何もかも大事な何かを失うと思うのである。自分の今まで感じた「この世から消えたい」も、時間軸の変化に許容されたおかげで、今があるのである。許容されていなければ、今自分は生きていないのだ。



しかしこうした発言が、「死ぬ権利は許さないから、生きて苦しみ続けろ」と言っていることにほとんど変わらないから、事態は深刻なのだろう。



この世界で、何かを意欲するということは必ず苦しみを伴う。そこからの解放が死であることを、やはり自分はまだ認められないのである。それでも、仕方ないのである。生きていて欲しいから。


今ある自分から、何か他の形の人間を目指したいと意欲するとき、それは自分ひとりだけの変化という話だけで終わるような気がする。しかしそうした自分の変化を求めるモチベーションは自分だけで生み出したものではなく、自分とは違う他者を見て生み出されていることを考えたとき、自分がこの先の自分を考えることは、自分が今の他者を考えることに等しい。だから自分が死ぬ権利を訴える時には、自分の目指すこの先の自分を殺すことでもあり、その源である他者を殺すことでもあると考えている。




もちろん人それぞれに別の考えがあっていい。でも、死を救済とだけはしてほしくない。ちょっとでもこの文章が、多くの人に届くと嬉しい。