「政治」という言説の場に、感情はあるのか

自分は、政治というものになかなか関心を持ってこなかった。中学受験の時の社会の科目やセンター試験の倫理政経の科目のために少しだけ勉強したことを除けば、政治に関して勉強をした時間はほとんどゼロかもしれない。恥ずかしい話だが、本当に自分はここに関心がない。


なぜなのだろうと考えたら、多分答えは単純で、それを学ぼうとする動機がほとんどないからである。


と言うと、こういう人がいるだろう。我々の周りいあるものは全て国の決定で成り立っているのに、そうしたものに関心がないというのはけしからん、と。まあ、その通りだ。しかし税金とかそういうもので成り立っているものがあまりに多いせいで、その恩恵をひしひしと感じる機会もない。



以前、『生き心地の良い町』という本を紹介した時、自死を減らす要因となった五つの心理的側面を紹介した。

①いろんな人がいて良い、いろんな人がいたほうが良い

②人物本位主義を貫く

③どうせ自分なんて、と考えない

④「病」は市に出せ

⑤ゆるやかにつながる


詳細は、実際に書いた記事(【前編】自死の予防因子について―『生き心地の良い町』より― - おかえり、春の丘。)を参考にしてもらうとして、今回話すのは、自分の政治への関心のなさは③によるものではないかと思っているということだ。


つまり、自分の自己効力感の不足が政治への無関心を引き起こしているということである。


自己効力感とは、自分の力が周りの人々、ひいては社会のために役立っているという実感のことを指す。しかしこうした実感とは真逆の感情を抱いてきたことの方が、自分には多かったように感じる。だから政治に関しても同じで、自分の力が国に役立つと思ったことがないから、力を役立てる対象を知ろうという気も起こらないのである。


例えば、大学生はコロナの影響で散々不条理な扱いを受けてきた。しかし、この不条理な扱いは、補償がないと経営を存続できないような飲食店のように、死に直結するものではない。学ぶ場を家にしろと言われ続け、命ではなく心の安息に危害を加えられているだけなので、大学生側の納得と自制に委ねられる。だから国に何かを言うよりも僕は自分で何とかする方が早いと思っていて、実際そこまで苦労を感じてこなかった。国に対する怒りは、そこまで巻き起こらない。


他にも、例えば最近なら森喜朗氏の言葉とか、そういうものに批判の声が上がる。女性に対して不当な扱いだという声は、一気に膨れ上がるが、これにも自分は怒りの感情が起こらない。もちろんこれは、森喜朗氏の擁護ではない。そんな発言しょうもないな、くらいには思うけど、そんな人間がリーダーの立ち位置にいるのはおかしいとか辞任させろとかは思わない。



何故かと言えば、答えは一つだ。僕は今まで、そうした不快なものに対しては違う生き物と思い関わらないことを心がけて訓練してきたからである。



あなたが仮に、図書館内の窓際の席で勉強している時に、セミがミンミンとせわしく鳴いていたとしよう。勉強しているのにうるさいなと思うことはあっても、わざわざ窓を開けてセミに向かって「うるさいなあ!勉強してるんだよこっちは!」と怒鳴る人はまさかいないだろう。これはなぜかと言えば、怒鳴ったところで結果は変わらないからである。セミという生き物は、どれだけ怒号を浴びせても自身の生存のために鳴き続ける生き物だからだ。だから窓際から動いて遠い場所で勉強するとか、自分の行動で事態を回避した方が手っ取り早い。



これと同じことを、政治に対しても僕は思っているのだと思う。大学生に不遇な条件を課してくる人間の思考回路も、女性軽視の発言も、僕にとってはセミなのだ。「うるさいなあ」で思考は止まり、セミへの怒りにはつながらない。次にとる僕の行動はいままでずっと、「そこから遠ざかる」だった。


だってそういう生き物なんだもの。仮に森喜朗氏を現在の座から引きずり降ろしても、セミはきっと他の場所を見つけて鳴く。求愛のために鳴かないといけない生き物なのだから、仕方ない。



――しかし――


これを本当に仕方ないと全国民が思ったときに、政治は狂うのだろう。誰も声を上げなくなったら終わりだ。誰か自分のほかに、そういうものに怒りの声を届けてくれる人がいるおかげで、自分のこの無関心は国を滅ぼさずに済んでいる。たまにはセミに対して虫捕り棒で捕まえてくれる人がいるから、我々は図書館で平穏に勉強が出来ているのだ。それだけは、きっと忘れてはいけない。



つくづく、政治というのは言説の場だなと感じる。



大事になっているのはいつも、人に対してどんな役に立つ施策を生み出すかではなく、どんな信頼を得られる施策を生み出すか、ではないだろうか。正しいことでも信頼が得られなければ意味がなくなる。言葉巧みに国民を操るものから逃げるために、僕は図書館の窓際に座らないことを、とっくの昔に決めてしまったのだと思う。そのおかげで自分は自分らしい生き方が出来るようになったが、しかし、政治の言説を確認するという作業を行わなくなった。



だから、ありがとう。声を上げてくれる皆さんのおかげで、僕は生きられている。そう思うと、SNSに溢れるアンチを見ても、感謝の気持ちにすら変わる。