【前編】自死の予防因子について―『生き心地の良い町』より―

先月末に読んだ、岡檀さん著の『生き心地の良い町』が、かなり名著(このような表現だと上から目線ですが)だと感じて、刺激を受けたので、その内容を今日と明日にわたってまとめてみることとした。




岡檀さんが、大学院時代に、徳島県海部町という場所に出向き、ここで町民の方などからの聞き込み調査をすることで、この町が自殺率を低く抑える要因はどこなのかを調査した結果を、一冊の本でまとめてくださっている。


そしてこの調査において斬新な観点が、「自死の多い地域では何が自死に結びついたのか」ではなく、「自死の少ない地域では何が自死を抑えているのか」という岡さんの着眼点である。


これは、大変に難しいことである。例えば、自死が多いところで貧富の差や疫病などが見られれば、我々の直感に反しないものが得られそうなのは分かるが、それと反対に「ないもの」の立証をすることは大変困難だからである。例えば、皆さんが「なぜ今まで殺人に手を染めたことがなかったか」と聞かれて、その要因をパッと口にするのは難しいだろうし、仮に「周りの暖かい人に囲まれたから」みたいな仮説を出したとしても、それは検証できない。そもそもこの要因は、人によっていくつものとらえ方が現れてしまうはずだ。


しかし、岡さんの決意は固いものだった。実際にそうしたことを大学院の同期などに言われたそうだが、それでもと調査に踏み切ったようだ。感嘆の意しか表せない。


そうして調査に踏み切った中で見つけられた、この町の自殺率が低い原因が、この本の中では大きく分けて二つに大別されているように思う。



一つ目は、海部町に長く伝わるコミュニケーション方式、人とのかかわり方に関するところ。二つ目は、海部町の地理的な側面である。



前者をこの前編で、後者を明日の後編にてまとめたいと思っている。


自死の予防因子―心理的背景―


この本で、海部町に伝わる何が自死を抑えているのだろうか。主に、五つが挙げられている。


①いろんな人がいて良い、いろんな人がいたほうが良い

②人物本位主義を貫く

③どうせ自分なんて、と考えない

④「病」は市に出せ

⑤ゆるやかにつながる

このひとつずつを、大まかに見ていきたい。

①いろんな人がいて良い、いろんな人がいたほうが良い


海部町では、赤い羽根募金の集まりが非常に悪いという話があるらしい。これは、協調性がないというような側面ではなく、「自らのしたいことが尊重される」というような側面を表すものとして機能している。その代わり、この町の若者によって構成される「朋輩組」に必要な資金は、大金をはたいてでも協力をするようだ。


つまり、どんなに少額であろうとも、「自分がこれに金を出したい」という気持ちがないのであれば、周りも払っているからなどと言う理由で払うことはなく、逆に、「自分がこれに金を出したい」という気持ちがあるなら、大金でもそれに協力するらしい。そしてここで重要なのは、前者のように赤い羽根募金を断った時、「あの人は協調性がないわ」などと後ろ指を指されることがこの町ではなかなか確認できなかった、という事実である。「そんなことをするのは、野暮じゃろ」と、町民は、正義感に溢れるような様子ではなく、本当にあっけらかんとした顔で話すそうだ。


これには、都会に住む我々にも大きく心当たりがあるのではないか。多数派に従わない少数派を、「協調性のない人間」という視線で見た経験、一度はあるのではないだろうか。そこで、色々な人間がいても良いと、すっとその人の人間性を尊重する空気感が、この町にはできていたのである。


だから、海部町の町民は都会に出るとカルチャーショックがすごいらしい。しかし、初めはどんなに衝撃を受けても、「まあ、いろんな人がいるから」というように受け入れることで処世術と出来る側面があることも指摘されていた。こうすれば、周りに溶け込めないのは自分のせい、みたいな発想にはなかなかならないのであろう。

②人物本位主義を貫く


先程登場した、この町での若者の組合である「朋輩組」では、長の選出などにおいて、その人の年功などを無条件で敬うということをしないらしい。あくまでその人の人物性を見て決める、ということだ。


日本ではまさに年功序列という制度が固定化してきており、年長者を無条件に敬う姿勢では、結果を出しても意味がないという無力感につながる側面もあるから、そうした現象を抑えることができている。「人を選ぶ際には、学歴や職歴を重視する」というアンケート項目に「はい」と答える人は、この町では他の町よりも有意に少なかったようだ。

③どうせ自分なんて、と考えない


これは、②につながっているように思う。「自分には政府を動かすような力はない」というアンケート項目に、「はい」と答えた人は、この町では他の町よりもさらに低かったようである。


つまり、都会に住む人たちにとって、「大きなこの世の仕組みを作る人間はほとんどあらかじめ決まっていて、自分たちには関係ない」という意識が定着してしまっていることがある。この世を作る役回りに自分は関係ないという意識は、突き詰めれば自分の生きる価値につながってくるはずだ。

④「病」は市に出せ


この項目が、自分にとっては一番面白かった。これはこの町に以前から伝わる格言らしいが、自分に負えないことはすぐに周りを頼れ、ということである。


特に面白かったのは、この町を訪れた精神科医の方が「この町の高齢者が診察に来る時の足音は、他の町よりも堂々としている」と話していたことである。周りを頼るということに対して、いい意味で申し訳なさがないのである。


丁度少し前に、援助希求に関して記事を書いた。


www.mattsun.work


要点になったのは、自分が助けられる側になった時にそれを「迷惑をかけている」という意識になってしまうことの危険さである。これがこの町には、他の町に比べて少ないのである。援助希求をしやすい空気が出来ているということだ。


そしてそれは、「助けられるのは当然だ」と援助される側が思っているからでも、「何が何でも助けなきゃ」と援助する側の正義感が強いからでもない。それが次の五番目の話ににつながる。「ゆるやかにつながっているから」なのだ。

⑤ゆるやかにつながる


「町民との付き合いは、立ち話程度である」というアンケート項目では海部町の町民が、「町民とは、生活面で大きく支えあっている」というアンケート項目では他の町の町民が、「はい」と答えた人が多かったのだそうだ。これは、かなり我々にとっては意外ではないだろうか。


つまり、何から何でも助けてあげる、というような意識は海部町の中に蔓延していない。あくまでそれは立ち話程度の付き合いだが、しかし、他人への興味は人一倍に存在している。岡さんがこの町を訪れた際に、「あの方は誰やろう」と各所で噂されたらしいが、しかしだんだんとその町に受け入れられていった様子が書かれている。


これが、この町での「絆」なのである。詳しくは、以下のまとめで話す。

まとめ


つまりここ、海部町では、何から何まで助けてやるというような完全な相互扶助は存在しない。その代わり、他人に対しての興味は人一倍で、立ち話などで町民は交錯する。それだけで終わるなら希薄な関係と思われるかもしれないが、他人に対して手を差し伸べることは怠らない。

一人の女性が、「そういや、○○さん、うつになっとんじぇ」と切り出した。
これを聞いた途端、周りの女性たちは一斉に、「ほな、みにいてやらないといかん!」「行ってやらないかんなー」と異口同音に言った。
(略)
どうやら、当事者を遠巻きにしたりそっとしておいてあげようという発想はあまりないらしい。さっさと押しかけていくのだ。
もう一つ興味深かったのは、彼女たちの「行ってやらなあかん!」という表明が、打てば響くように同時に発せられたということである。あなたはどうする?あなたが行くなら、私も行こうかな。私の周りで見られたこうしたやり取りが、ここでは一切省略されていたのである。

うつとかそういうものを、多く気を配って配慮しなくてはいけないと我々は思っているから、当人に対しての干渉に慎重になる。しかしその慎重さこそが、「触れがたいものに触れようとしている感触」として伝わることで、うつに対する負のスティグマ性(つまり、うつは弱いし配慮しなきゃ、みたいな悪気のないレッテルとしての視線)を増やすという事実に、我々は気付いてこなっかたのではないかと思うのである。


ゆるやかにつながりつつ、困った時にはすぐに迷わず飛び込むのがこの町の流儀なのである。


我々は、逆になってはいないだろうか。


普段から、「自死を防ぐためには周りとの人間関係を第一に!助けられる環境を!」と、人々をどんどん凝集させようとするわりに、しかし困った人がいれば「どう関わっていいのかな、傷つけるかな」などと言って尻込みしてしまうのだ。自分の胸にも、多くの思い当たる節がある。これが、「逆」なのだと気付かせてくれるのが、この著書の最も大切なことではないかと思うのである。


凝集などさせず、他人への関心を持ちながら、立ち話程度でいい(もっともそれが真の凝集なのかもしれない)。しかし、何かあったらすぐに駆け付けるし、そこで何をするかなどは、個人の判断を尊重する。人物本位主義を貫いてきた町にしかできない芸当だ。



ぜひ死ぬまでに一度訪れたい町だと思った。


次回は、地理的及び歴史的側面に触れる。