「援助希求」を拒む。助けてくれるな。

自死の解決に、重要と思われるものはなんだろうか。


ひとつに、こんな意見があるだろう。希死念慮を持った人間に対して、そのことを誰かに相談できるような環境があるのがベストだろう、というものだ。この意見について、今回は考える。


よく、いのちの相談、みたいな名前での電話サービスがあるが、自分はそれに対して懐疑的な視線を未だに持っている。本当に苦しい時、そこに電話するだろうかと。僕は、絶対にしないと思う。自分の苦しみを顔も知らない第三者にさらすのは、僕にとっては限りなく勇気が必要で、なら一人で死ぬことの方が、と考えてしまうのではないかと思う。


それはお前の意見だと言われればその通りで、いのちの電話に対する印象に関して、他の人から話を聞いたわけでもない。しかし、そういった「電話ボックス」が置かれているだけで自死の対策に踏み切ったような気になっている側面は少なからずあると思って、自分はその状態には警鐘を鳴らさないといけないと思っている。


その人の中の苦しみには、時期によって深い浅いがあって、それが深まるにしたがって「顔の見えない第三者に苦しみを開示する事」に対してどのような印象を持つようになるのかという、少し踏み切った調査が、まず必要だと思うのである(もしも既存のものをご存じの方がいたら教えてください)。そこで、もし苦しみが深まるほど援助希求が難しくなる側面を発見するのなら、では苦しみが浅い時に援助希求が出来るようにしないといけない。しかし、浅い苦しみだと思われるのではないか、という気持ちはその援助希求を難しくする。「こんな苦しみ、消化できない私が悪いのに」となってしまわぬような社会を目指さないといけない。しかし「いのちの相談」なのに、相談の門戸を広く開けたことで関係のない相談ばかりが来ても困る。



ここまで考察して初めて「是非を問うた」と言えるのではないか。いのちの電話とは、そこにあるだけで、もしも希死念慮を持った人が相談できるだけで苦しみなど万来解決、そんな装置に思われてはいないだろうか。



むしろ逆のことの方が、僕は多いと思っている。



自分のことを愛してくれていると分かっているからこそ、死にたいなんて言えない。

死ぬときは、なるべく周りに関わらずに迷惑をかけずに死にたい。

子供が頼ってくれているのに、失業したなんて言えない。

若者の時間と金を奪ってまで、老人ホームに通うのは申し訳ない。



援助希求とは、即ち、本人にとっては相手への裏切り行為でもあるという事実から、多くの人は目をそらして来てやいないだろうか。「助けを求めろ」の裏には、本人の葛藤が溢れているのである。以前にも、「苦しみから逃げてもいいよ」の危うさを指摘した。


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こうしたケースのように、援助希求が難しくなる事実の発端を担っているものは、なんだろう。僕は幼少期における「絆の教育」だと思っている。


小学校の道徳の授業を思い出してほしい。僕たちが言われたことは何だっただろう。


命を大切に。
困った人がいたら助ける。
みんな仲良く協力する。


こうした文言のそれ自体に対しては一切不満がない。それ自体は間違いなく立派な道徳だが、しかし、思考停止でその言葉を全人類に投げかけるのは、道徳でも何でもないはずだ。



いじめられて死にたくなっている生徒に「命は大事だよ」と言って自死は防げるだろうか。

なんとか上手くやっているように装いたいのに「困った人」と言われるのは、実は辛いことなのではないか。

みんな仲良く協力しないといけない、と言って誹謗中傷がなくなるだろうか。



むしろ道徳にも、重大な副作用があったのだ。みんなとの協調性を重んじて、何があっても困った人を助けないといけないという教育は、自分が困った人間側になった際に、「周りに迷惑をかけている」という意識を冗長させてしまう。こんな残酷な真実を伏せられて、我々は道徳をインプットされてきた。


岡檀さんの『生き心地の良い町』では、以下のように述べられている。


しんみりとした口調で、彼女は言った。現在の自分の状態に――働けなくなり、介助を受け、バスで送迎してもらって入浴したりしている、その状態に強い罪悪感を持っていると言う。
「やっぱりなあ、遠慮で。人から『極道もん』と言われる。デイにもほんまは週に二回来たいけど、一回にしとるんじぇ。息子にも申し訳ないし」
目の前の大きな椅子にちょこんと腰かけているこの老女は、若い時から毎日畑に出て日の出から日の入りまで働き、家庭を支えて子供を育てて、きちんと税金を納めてきた人である。


今まで協調性を誰よりも重んじてきたがゆえに、協調性を実現できない事実を「迷惑」と捉えてしまう、そんな側面があるのではないか。そういった気持ちは、「私なんて助けなくていい」につながりやしないだろうか。


実際同書でも、自殺率の低い徳島県海部町では、精神科を受診する患者の顔は段違いに晴れやかであるらしい。堂々と、受診しに来るそうだ。

試行錯誤しながら研究を進めた結果、自殺希少地域である海部町では、隣人とは頻繁な接触がありコミュニケーションが保たれているものの、必要十分な援助を行う以外は淡泊な付き合いが維持されている様子が窺えた。
対する自殺多発地域A町では、緊密な人間関係と相互扶助が定着しており、身内同士の結束が強い一方で、外に向かっては排他的であることが分かった。二つのコミュニティを比較したところ、A町の方が住民の悩みや問題が開示されにくく、援助希求が抑制されるという関係が明らかになった。


なにがなんでも他人に干渉することが「絆」ではないし、逆に、淡泊な関係の中に「絆」が存在しないわけではない。


本当のつながりとは何たるかを、一度考えさせる機会があってもいいと思う。思考停止で道徳を投げ込むのは、危険だ。