殴りたくなるような過去に、死ねと言いたい

取り返しのつかないミス、というものがある。


他のミスは取り返しがつく、というのは少し表現が傲慢かもしれない。受験に失敗したとかを「取り返しのつかないミス」ということは少ないかもしれないが、現役で第一志望に合格という経験は一生できないから、これももちろん「取り返しのつかないミス」だ。しかしこれに対して「取り返しのつかないミス」ということが少ないのは、来年再受験して次こそは合格を勝ち取るという可能性がまだ残っているためである。


そうした可能性すら残さないミス。


それは、人の喪失に代表されるのではないかと思う。人が亡くなるとき、その人は何をしても帰ってこない。亡くなった原因に自分が思い当たるなら、それは深く心に傷を残す。



死別に限らず、こうした「取り返しのつかないもの」を目の前にした時、自分はとても”弱い”と思っている。



自分に限らないと思う。大切な人の死別にあっけらかんと出来る人はいないだろうし、死別に限らずとも、過去の愚かな悔しいミスは、長時間引きずられることがある。



そしてこういうミスに対して、それをミスと捉えないような考え方の提案をしてくる人種がいる。「○○さんも、あなたがめそめそしているのは望んでいないよ」とか、「そのミスがあったからこそ今のあなたがいるじゃん」みたいな発言だ。これは、正しい。



正しいが、人を強くはしない。



東野圭吾の作品に、死刑制度をテーマにした『虚ろな十字架』という小説がある。この中での一節を引用する。少し長くなるが、すべてを読んでいただきたい。


仮に死刑判決が出たとしても、それは遺族にとっては勝ちでも何でもない。何も得ていない。ただ必要な手順、当然の手続きが終わったにすぎない。死刑執行がなされても同じことだ。愛するものを奪われた事実は変わらず、心の傷が癒されることはない。だったら死刑でなくても構わないではないかという人がいるかもしれないが、それは違う。もし犯人が生きていれば、「なぜ生きているのか、生きる権利が与えられているのか」という疑問が、遺族の心をさらに蝕むのだ。死刑を廃止にして終身刑を導入せよとの声もあるが、遺族たちの感情を全く理解していない。終身刑では犯人は生きている。この世界のどこかにいて、毎日ご飯を食べ、誰かと話し、もしかすると趣味の一つくらいは持っているかもしれない。そのように想像することが、遺族にとっては死ぬほど苦しいのだ。だがしつこいようだが、死刑判決によって遺族が救われるというわけでは決してない。遺族にとって犯人が死ぬのは当たり前のことなのだ。よく「死んで償う」という言葉が使われるが、遺族にしてみれば犯人の死など「償い」でもなんでもない。それは悲しみを乗り越えるための通過点だ。しかもそこを通り過ぎたからといって、その後の道筋が見えてくるわけではない。自分たちが何を乗り越え、どこへ向かえば幸せになれるのか、全く分からないままだ。ところがその数少ない通過点すら奪われたら、遺族はいったいどうすればよいのだ。死刑廃止とは、そういうことなのである。



死刑制度に対する見解などは、ここではいったん避ける。今重要な話として持ち出したいのは、「取り返しのつかないミスに対して、それぞれの人なりの『通過点』がある」という事実に他ならない。そしてここにも書かれているように、その通過点は悲しみの救済のために用意されたものではないということである。通過点とは、本人にとっては最重要だが他者からは馬鹿馬鹿しく映る所作を指すということだ。



ここまで読んで、ポジティブに行こうよ、なんて遺族に言えるだろうか。自分だったら、口が裂けても言えない。



こうした感情は、人生に転がるものではない。経験しない人の方が、きっと多いのだろう。しかし死別に限らないなら、誰もの胸に心当たりがあるのではないだろうか。



本当に、殴りたくなるような過去なのだ。ぼこぼこにして、跡形もなくなるくらいに。



今から思えば、どうしてそんなことに手を染めたのだろう、とか、どうしてそんな自分をかっこよいと思ったのだろう、とか、どうしてその愚かさに気が付かなかったのだろう、とか、どうしてそれが後々人を傷つけると気が付かなかったのだろう、とか…………………。



そういう思いを抱えたときに限って、誰も悪くないのだ。上の文章では、死刑囚(もしくはそれを生んだ要因)が悪いと言い切れるが、自分の扱ってきた自死などでは、それすらない。自死でなくても構わない。未熟な自分や他人を憂いたとして、未熟を経験しない人などいないのだから、絶対に誰も悪くないのだ。



しかし、それでも、そうした取り返しのつかないミスに対して「通過点」を求める自分が、心の中に存在しているのである。



お前は悪くない。でも、俺だって悪くない。じゃあこの苦しみは何なのだ、と。誰も悪くないのにこのふつふつと湧きあがる苦しみ、怒りの正体って、いったいなんだというのだ。それはいつしか「自分自身が我慢すればよい」という考えへと変貌し、自分は、誰も責めることもなく自らの心へとそれを封じるしかないのである。



誰か教えて欲しい。過去を消す以外で、いい処方箋ってないのだろうか。今の自分には見つけられる気がしない。



もちろん、ポジティブな人であれば、そうした感情をうまく処理できる人がいるという事は分かっている。しかし、それは全人類に当てはまる共通法則ではないから、自分もそうなれと言われるときには、それはもう「死ね」に変わらない言葉でもある。



きっと、それは自分に染みついた癖なのだろう。高校で友人を自死で亡くしてからいつの間にか僕に定着したのかもしれない。殴りたくなるような過去に、どんなに罵詈雑言を浴びせても消えないその過去に、一番へたくそで愚かな対処法で臨んできたのだと思う。



ばかだ。だれも、わるくないのに。