「愚かである」ということ。―『愚行録』―

自分の愚かさに嫌になることがある。また、他人の愚かさに嫌になることもある。


前者はおそらく、どちらかと言えば内省的な人間に映り、褒められる人間の部類に入るだろう。一方後者は、自分の都合で周りを決めつけるような、自己的な人間に映ることが多いかもしれない。


僕には、そのどちらもがあり、この両者は、正反対の世界にいる二者ではなく、同じ世界を行き来するだけの、同一人物でもある。



『愚行録』という映画を見た。

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自分は、人から殺したくなるような恨みを買ったことはないと思っているが、その自信が、消えた。


映画に出てくる人間は、誰もが”いわゆる”クズである。騙し、浮気、殺人、強姦、見ていて後味のいいものではない。しかし、誰もがそう行動するにあたって自分の正義が、ある。


ここに出てくる登場人物を愚かだと感じ、そして僕はこの愚かさを反面教師にしよう、なんて思ったとき、『愚か』の檻に閉じ込められてしまうような感触を抱いて、僕にはとても不気味だった。





この現実世界で、他人を見て愚かだと思ったことなど山ほどある。コロナで人間関係が制限された今この瞬間を切り取った時ですらそうだ。遠くの人間はと思い、SNSを見ても、そこには数多の「愚か」が人間の顔をして転がっている。


だから僕はその「愚か」から逃げたかったのだろう。気分が浮かない時にはSNSのアプリを消去し、徹底的に自らの人間関係を絞った。時には自らの防衛機制を遺憾なく発揮させ、解決することのない感情の渦に身を投げた。



その『愚か』の正体とは、なんだろう。



他人を自分の思いのままにコントロールすることだろうか。他人を殺すことだろうか。他人をだますことだろうか。他人を苦しませることだろうか。他人に礼儀のかけらもない中傷を浴びせることだろうか。



どれも違うとはっきりと分かったのである。『愚か』の正体とは、僕にとっては「普通のフィルターを通して人間を観察すること」だったのだ。


だから何も問題は起きていないのに「あちら側」にいる姉より、問題だらけでも「こちら側」にいる姉の方が、妹はずっと嬉しいのだ。(村田沙耶香コンビニ人間』より)



人間は、「あちら側」をしきりに愚かなものとしたがる。だから、愚かだと思われていることも知らずに、自らの「普通のフィルター」で自分の正義を嬉々として語る『愚行録』の登場人物を見る観客も、なんて愚かな登場人物、と思って映画を見るのだ。そう、観客各々が、ひとりひとり自分の「普通のフィルター」を通して。



――観客各々が、ひとりひとり自分の「普通のフィルター」を通して――



この文章を書いたときに、はっと気が付く。僕にとっての『愚か』とは、終わらないループであり、気がついたときには出られなくなる『愚かの檻』なのだ。


「愚か」が「愚か」を見て「愚か」だと言っているのだ。




僕のバイト先の常連の方は、「京大さんを出られて、さぞかし優秀な就職先があるのではないですか」と言った。僕はただ悲しくなった。あなたの視線の「普通のフィルター」からは、僕の姿は映らない。世の普通が、僕の肩にのしかかる。

今はコロナで大会もなく、正規の練習もなくオフ日程の部活では、毎日部員が楽しそうにワイワイ試合をしている。そんな後輩を見て、僕は思うのだ。来たる試合に向けて、どうして練習をしようと思わないのだろうか。このままであっという間に試合が来て、奴らはどんな顔をするのだろうか。1.2年前、試合はほとんどせずに練習していた上の代を見て、何を感じたのだろうか。ばかだなあ。そう、僕の視線の「普通のフィルター」には、奴らの姿は映らない。僕の普通が、奴らの肩にのしかかる。


何も変わらないのだ。フィルターを語るためには各々のフィルターを使わないといけないから、僕の肩に降りかかる何かを取り払うには、僕も同じことをするしかなかったのである。これこそが、もしかしたら僕の愚行録なのかもしれない。


それは君の考えすぎだ、という意見は受け付けない。「考えすぎ」なんて言葉、まさにフィルターの代名詞だろう。



他人を愚かだと思った瞬間、それは僕の心を鉄槌となって叩くのだ。『愚行録』の登場人物も、SNSにありふれる暴言も、ワイワイと試合をする後輩も、そして、どんなに愛する人の過去の過ちでさえも、それを愚かだと思った瞬間に、その「愚か」は自己紹介となって自分の心の底から沸々と這いあがるしかない。やめてくれと思ったときにはもう、体は侵食されていて、止められなくなる。


愚かであればあるほど、辛いのだ。他人に対しての「どうしてそこまで愚かなんだ」は、自分に対しての「どうしてそこまで愚かなんだ」に同義だからだ。



こんなことを考えなくても良くなるには、一人で生きるしかないのだろう。この鉄槌は、今後自分の心を一生叩き続ける気がする。打たれ続ければ、心はいつしか強くなるのだろうか。見ものである。