『安楽死か、尊厳死か』ー要約と感想ー

新年になって、本を読むことが増えた。その中の一冊で、この本を買った。


安楽死か、尊厳死か (ディスカヴァー携書)

安楽死か、尊厳死か (ディスカヴァー携書)



大学で自死の研究を行ってきたが、自分は安楽死に関する考察をしてきたことはほとんどなかったのである。ここを考えてみたいという気持ちのもと、購入した。


ちなみに、皆さんはどう思われるだろうか。例えば、持病の耐えがたい苦しみにより、病院で受けていた延命治療を拒否し、迫りゆく死を選択することは、「自死」と呼ばれるものだろうか。


これを、他のゼミに参加していた際に聞いてみたところ、一人の方がこう答えられたのをはっきりと覚えている。



「延命治療を拒むのは、生きたかった人のやむを得ない選択であって、自ら死を選ぶ自死とは区別されると思います」



心の底から悲しい気持ちになったのを思い出す。自死とは、生きたかった人のやむを得ない選択ではない、という考えも存在するようだ。これを言ってくれた人に一切の悪気がないこともひしひしと感じ取れたため、余計に辛かった。


日本では、安楽死は認められていない。外国であれば、スイスやベルギー、オランダなどでは認められている。安楽死とは何が問題で、尊厳死とはどう区別されるのだろうか。



尊厳死安楽死の違いは、積極性で語られる。つまり、延命の治療を望まず、為すがままに体が衰退するのを感じながら死を選ぶことが尊厳死であり、それとは反対に、薬物の投与や電気ショックなどにより、今この瞬間に生を打ち切ることを安楽死と呼ぶことが多いようだ。だから、上のゼミでの自分の発言は、「尊厳死自死か?」と聞いているのと同じである。


尊厳死の選択を許容しろという声が上がってきたのは、ここ50年でのことらしい。何か自発的に生命活動を行える状態でなら延命は少しの期間であろうと意味を持つだろうが、ベッドから体はほとんど動かないのに体にチューブだけ差し込まれて命だけ長続きさせることに価値はあるのだろうかという声がだんだんと強くなってきたのである。同書では、がんの告知が本人になされなかったために、国民や側近に対して言葉を残すことができなかった昭和天皇の話が例に挙げられる。


そしてその尊厳死を認める際、その宣告書の柱は次の三つである。

1 現代の医学では治療が不可能である
2 苦痛緩和のために薬物を投下する
3 植物状態に陥った際は、生命維持を中止する


しかしこれでは、精神的な苦痛に関しては(例えば認知症など)認められない。徘徊から始まるどんな症状が出ようと、周りの家族はその終わりの見えない不安と戦うことを強いられ、出来れば楽にしてやりたいと思っても、その願いはかなうことはない。



そして同書の中でも重要な位置を占めるのが、安楽死は殺人かという問題である。


東海大学安楽死事件は、有名なものだろう。悪意ない若手の意志によって起こったものだが、遺族の身内が殺人の手助けをしたとみなされることへの不安から証言をひっくり返したという事実があり、東海大学だけに限らず、似たことが神奈川県川崎市での病院でも起こっていたようだ。


そこで女性の医師は、延命治療を中止した際にそれが内部告発によって明らかになって裁判となり、軽い量刑ではあるものの殺人罪が認められた。彼女の著書での次の一節に、言葉にならない思いを感じた。

この国では、意識がなく回復の見込みのない患者さんに医療者が延命治療を中止すれば、殺人罪で刑事訴追できることになったのです

自分は、自分の死にざまを想像したことはほとんどない。どんなに頑張って考えても実感がどうしても追いつかないだろう。もう少し年をとってくると染みる本になるのかもしれない、と感じた。