心の不自由と、科学の自由

京都大学の総合人間学部に所属していると、主専攻に加えて副専攻の科目を履修しないといけない。つまり、論文などを書く題材と出来るような、自分が勉強したい分野に加えて、知見を広めておくという目的のために、自分の専門外の科目を学ばないといけないことになっている。

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僕は人間科学系を主専攻にした。この学系は文系にあたるが、自分は理系で大学に入学したし、転学部をする前に工学部でとった数学の単位を無駄にしないためにも、副専攻は、理系の「自然科学系」というところにした。


自死のこととか、主専攻の話しかほとんどここではしてこなかったから、こっちの副専攻に絡む話があってもいいなと思って、今回は書くことにした。副専攻は心ここにあらずで聞いた科目がほとんどだったから大したことは言えないけれど、しかし主専攻と通じる重要な発見があったとしたら、それは「科学の宗教性」についての話である。


科学の宗教性とはどういうことかと言うと、即ち「コロナのワクチンが出来れば情勢は回復に向かう」と思うのと、「現世で徳を積めば極楽浄土に行ける」と思うのは、中身は意外と変わらないということである。一般人が科学を受け入れる姿勢には、宗教の一種のような側面があるということだ。



これは、なかなか受け入れがたい真実となる人が多いと思う。自分もそうだった。



なぜなら人は、宗教などという曖昧な心の拠り所などとは違い、科学は絶対的に正しいものだと捉えやすいからだ。つまり、物理反応や化学反応などは絶対的であり、先人の見つけた理論が今後未来永劫適用されるものという無意識の感覚が、我々の中には少なからずある。恣意的に嘘をつくような人間がいることを考慮しなければ、さまざまな人間の発見によってこの世の謎はどんどん減っていっているという考え方だ。



これは、厳密に正しくない。「再現性の有無」を見落としている。



「一度証明された真実」はこの世の絶対ではない。つまり、一度偉大な発見がなされたとしても、それに矛盾する現象が今後現れる可能性などはいくらでもあるのだ。万有引力の法則だって、実は違う媒介変数が潜んでいたがために、今後破綻するという可能性はある。だから、「今そうである」と「今後もそう」は等しくない。


当たり前だ、と思われるだろう。しかし「今そうである」だけの科学は常に「今後もそう」という顔をして我々の前に降りかかってきているのである。だから何も考えずに鵜呑みにしていると、まさにイソジンが有効だと周りに知らせ、イソジンを買い占める人間になる。


そしてそれはなぜかと言われれば、自分には二つの理由が思いつく。


一つ目は、「人の信用を得るため」である。「コロナのワクチンは今現在は有効だが、今後何らかの発見により矛盾が生じる可能性がある」などとは誰も言わない。どんなに当り前のことであろうと、患者にとって体の様態に関わる不利益な情報とかでなければ、それは世に出回らないのである。現在は問題がないにもかかわらず、当たり前のことを言って患者を不安にさせるだけのフレーズは、隠すに決まっている。


二つ目は、新事実が発見される段階で「研究として美しくしたいため」である。これは、自分にも思い当たる節があって分かりやすかった。

心理学の分野では、ある仮説を検証するために、t検定というものが行われる。詳細は省くが、「○○と△△の間には正の相関があるのではないか!」と思ったとき、集めたデータから計算を行い、p値というものを算出する。このp値が、0.05よりも小さくなれば、仮説は正しかったと認められる(この0.05という数字は絶対的なものではなく、これくらいだったら相関を認めてあげてもいいかもねと偉い人が決めただけ)。

しかし、データは日本国民全員から集められるわけではない。ある集団を任意にチョイスしてそこから計算するわけだが、この集団などどのように選んでも良いのだから(もちろんある程度数がいないと駄目だが)、母数のパターンを変えてたまたま0.05を下回ったときに「やった!仮説が正しかった!」としてしまうことが可能になる。

このデータが正しいものとして世に出回るのは、それはまずいだろう。


しかし他人事ではなく、こうしたデータが、「未来永劫正しい」みたいな顔をして我々の前に表れることはいくらでもある。上のケースはもちろん研究者側に非があるが。




まとめると、①今後矛盾する可能性、②バイアスにより正しく見えてしまっている可能性、この二つを考慮しない限り科学を語れないはずなのである。



さて、初めの方で宗教の例を出していたので、ここに話を戻す。


キリスト教を信仰している人は、「今後キリスト教は破綻するかもしれず、また、バイアスのためにキリスト教が正しい宗教のように見えているのかもしれない」なんて思いながら礼拝をしている人間はいないと思う。信教の自由というものがあるように、各々が、自らの信念に従って納得のできる場所を求めているにすぎない。


だから、バイアスなどの要因を何も疑わずに世の科学を信じるだけなら、それはもう信仰なのである。「イスラム教や仏教なんて知りません、私にはキリスト様だけ」と言っているのに変わらない。


しかし、科学に対し定説を疑い、そしてバイアスを知る人間はそうではない。彼らは科学を信仰しているわけではなく、あくまで曖昧で今後崩れ行くものとして科学を受け入れている点で、宗教と異なる面の方が多い。自らの曖昧さを知ることはやはりどの分野でも重要なのである。


だから、「科学科学と言ったって、それは宗教の信仰と何が違うんだ!」というセリフは、何も考えず周りの情報を鵜呑みにする人間に当てはまり、総合的にある程度は曖昧なものとして科学を判断できる人間には当てはまらない。つまり、真の科学とは信仰ではない(と思っている)。




というような知見を学んだ。ちなみに、「生物の進化論の発見に関しては、目で確認できない過程なのでノーベル賞が適用されず、ダーウィン賞という固有の賞がある」という話を聞いて、この発想に至った。人間は、目で確認出来ると絶対的な気がして、目で確認できないと曖昧な気がするのである。ただそれはあくまで現在の話であり、今後の保証には関わらないよねということである。