自死から「逃げる」という選択の解釈


逃げるのは弱いことという解釈は、以前に比べてどんどん減って言うだろうという気はする。いじめとかそういう類のものがニュースになってくるにつれて、それに対抗するのは精神論だなんて、大真面目に言う人は減ってきただろう。逃げていいという認識は、今後どんどん増えて欲しい…と思っていた。


「湯を沸かすほどの熱い愛」という映画があった。

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確か感動作として勧めてもらったのをきっかけに、Amazon Primeで見た。映画は間違いなく感動作で、心を打たれた。


※以下、多少のネタバレを含みます


その中で、クラス内でいやがらせをうける娘(杉咲花)を独り立ちさせようと、母(宮沢りえ)が「学校に行きたくない」とベッドにくるまる娘を無理やり学校へと送り出すシーンがある。


母は残り余命二か月という設定であったし、母の姿として一般論に帰するのは違うというのは重々承知だが、しかし、怖さを感じた。


結局学校へ行った娘は奪われた制服を返せと教室で訴え、下着姿にまでになったのをきっかけに制服は返還、いじめも止んだからハッピーエンドとなるが、これで娘は強くなったと解釈し、これを見た他の人までも「やっぱ逃げてちゃだめなんだ」みたいになるのは、少し心苦しい気がした。



それは結局のところ、子供の感じ取っている苦しみの程度による。



学校に行くのが嫌だという時、それが火釜に入れられるほどの痛さなのか、少し肌に爪が食い込むくらいの痛さなのかによって、逃げるという言葉の意味合いは変わる。前者から逃げることには、人は寛容だ。それは死に結びつく辛さだ。しかし後者から逃げることには人は厳しい。そんなことも耐えられないようで社会で生き抜けるかと一蹴される。


それを判断するのは、すべて大人だ。


こいつのこの苦しみは爪が食い込む程度だと思っていた当人は火釜に入れられているような気持ちでいるなんてことが、多々ある。意識のギャップを見誤ると、大惨事になるリスクがある。


だから、周りから見たら爪が食い込んだ程度のことでも、まずはその痛さに共感することの重要性が解かれるわけだ。他の環境へ身を移すことでその苦しみが消えるなら、そうした逃げ道をあらかじめ提示しておいてあげよう、と言うわけだ。



自死を防ぐことを念頭に置く時も同じで、逃げ場所の用意をしてあげることが大事だと人は言う。学校で居心地が悪くても家なら安心できる、とか、バイトのあの人はいつも怖いけど、たまにシフトが被る女の子との会話が救いになっている、とか。そのように、どんな苦しみでもそれを少し和らげる緩衝材の準備に重要性を見出すのは、何も間違っていない。だから、緩衝材を用意してあげるのだ。



ただそれは、本当に緩衝材だろうか。



例えば、学校でいじめにあう生徒に、他の学校に転校する事を提案するとき、それを大人は「逃げ道を用意してあげた」と解釈する。


しかしそれは、子供が救われる可能性にしか目が行っておらず、子供が救われない可能性に目が行っていないのである。


学校でいじめにあう時、その子の学校での「顔」というものは、ほとんど崩壊している。些細な気詰まりから始まったもどかしさは膨大な羞恥心になるまで膨れ上がり、喚起される恥の意識は自我を崩壊させ得る。


そしてそれが、他の学校へ行くことで回復する保証は、どこにもないのである。転校すれば恥の意識がみるみる消えていくストーリーを、子供自身が想定できないから子供は苦しんでいるのだ。できるのなら、子供から転校させてくれと言ってきてもおかしくない。


むしろ、転校しても事態が改善しなかった時の方が深刻だ。転校しても似たようなことが起きたとしたら、自分が受け入れてもらえない環境をさらに一つ多く知ることになるから、周りではなく自分に問題があったのだという意識はさらに冗長されるはずだ。元の学校でいじめられていたことがあまりに辛くて逃げ出さないといけないという状況だったのに、さらにそれより辛い状況を目の当たりにするリスクを子供は抱えないといけないのである。



これを「逃げる」と本当に言えるだろうか。



本人からしたら、「次の環境を求めてマンションの三階から飛び降りろ」と言われているのと、ほとんど変わらないのではないか。確かにそれで苦しみから解放される可能性があるのなら、それは「逃げ道」としての側面を持つかもしれない。しかし三階から地上を目にして勝るのは恐怖だろう。飛び降りてもたまたま地面が柔らかくて命があるなら「救われた」と言ってもいいが、それでも代償として体のどこかは痛みを伴うだろうし、地面が柔らかい保証などどこにもないのである。固ければ、ほぼ死に至る。



当人に見えているのがこんな世界だとしても、周りの人は「逃げ道を用意してあげた」なんて思っているのだ。そんなものは逃げ道ではない。外したら死が待っている宝くじだ。買うのには相当な勇気が要る。



我々が「逃げること」と思っていることは、もしかしたらとても残酷なことなのかもしれない。


もしかすると、宮沢りえはそれを分かっていたのかもしれない。