言葉は性善説、人間は性悪説。

確か、精神分析の授業において、だったと思う。


エクリチュールパロールという、書き言葉と話し言葉による二項対立が存在していた、みたいな話を聞いた。その授業は自分には難解で、内容はあまり理解できていないのだが、簡単に言えば、「書き言葉は、伝えたいことと聞き手の受け取り方により噛み合わないことがある」みたいな話だったはずだ。専門用語の内容に関してはさておき、このように、言葉を発する人間と受け取る人間の間で齟齬が生じることは、現代でも多々ある話だろう。


僕は、言葉というそのものが好きだ。それは語彙力があるという意味ではなくて、どんなに簡単な言葉でもいいから、その言葉の背景に隠れた様々な状況が人々の間で交錯する様を見るのが好き、ということである。


やはり文系学部にいると、それを考える機会も増えたように感じる。その中で自分が一番に印象に残っているのは、ジャック・ラカンという精神分析家の考察である。

(1)言語は、話す場面ではなく聴く場面を考える。
(2)言語観の単位をあらかじめ独立して存在するものとして考えるのではなく、聴く主体の参与があって初めて成立する。
(3)我々は言語を「使う」と思っているが、正確には我々は言語の中に「いる」。言語は道具ではなく「場所」である。

(原和之(2019) 「言語と場所―シニフィアン連鎖・バベルの図書館・オイラー図」P105~106)


(1)と(2)は、聴く主体への意識を持つべきという主張となる(はず)。言葉の意味は、話し手が発した瞬間に決まるものと思われがちだがそうではないということだ。一つの言葉に対し、言葉を発する際の様相、会話をする二人の関係性、聴き手の人生観など様々なものが絡まって一つの意味に決まる。


この時、「聴く」とは、話し手の長い列となった言語群を分解し、そこで抽出された言語同士の絡まりあいの様相などから連想できる世界を聴き手が進んでいくということに他ならない。この聴き手が進んでいく世界こそが「言語」ではないか、というのがラカンの主張になる(はず)。これが(3)の表すことでもあり、文法など話し手の発信に重きが置かれた従来の言語観と異なるものだった。


我々は、意志疎通のツールとして言葉を使っていると思っている。つまり、キャッチボールにおいてのボールこそが言葉だと思っているのだ。それを互いのグローブで受け取る所作が「会話」だと思い込んでいる。



しかしラカンの考えはそうではない。キャッチボールをしている時にボールを受け取った時に感じた感触をもとに受け手が突き進んでいくその空間こそが「言葉」だと主張するのである。




例えば、皆さんにまず想像して欲しい。









ある一枚の紙に、船を操縦するミッキーの絵が描かれている。全体的にモノクロのトーンで、船の舵はミッキーと同じくらいの大きさだ。操縦するミッキーの左側からの視点で描かれている。










これで想像できた皆さんのイメージを一度保存しておいてほしい。











僕が説明したかったのは、この絵だ。









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皆さんの想像したものと比べて、全く同じだったという人はいるだろうか。いないだろう。船の形なりミッキーの様子なり、必ずどこかの要素が違ったはずだ。そして、僕はこの絵の説明を数行程度で終わらせたが、仮に一日かけて詳しく説明したとしても、この絵に完全に一致した想像をさせるのは不可能なはずだ。


もしもこの絵に一致した認識をさせたいなら、この絵を実際に見せるか、写真でも撮って送るしかない。そうすれば、絵の何もかもが僕の伝えたかったものと一致するだろう。


つまり言語は、肉眼での認識などに代表される知覚には勝てないのである。現象そのものを発話で完全に表現するのは不可能という事実は変わらない。ここで僕の発話がもたらした影響は、まさに皆さんが想像したミッキーの絵だ。僕の数行の説明により、数々の僕の言葉は、皆さんが思い浮かべた像へと変身を遂げた。ここでの言葉を、僕が用いた道具と捉えず、もともと皆さんの周りに存在していた何かだと捉えるのが、ラカンということになる(はず)。





自分でも混乱してきたのでここで言語を考えるのは終わりにし、自分が今結論を出すとしたら、「言葉は性善説、人間は性悪説」となる。意識の齟齬とは、言葉ではなく人間によって起こるというものだ。



そんなの当たり前、と言われるかもしれないが、ひとつ自分のテーマに関して例が出せる。以下の会話を見て欲しい。


A「自死か。そんな楽な道を選ぶなんて」
B「いや、自死は苦しいこと。知った気で話すな」
A「いや、死んだら楽だと思って死ぬんだろう」


ここで論点となるのは「自死が楽なのか」という点だ。Aが言いたいのは「苦しい中で生き続けるのをやめる事」が楽だということで、Bは「自死に追い込まれる状況にならないこと」が楽なことだと話していることになる。


つまり、「楽になる」という言語によりもたらされる二人の世界が異なることにより、こうした論争が勃発していることになる。


しかし、話をしている当人はそう思えていない。Aは、「苦しい中で生きる中だからこそ喜びを感じられるのに、それで”楽”して死ぬなんて、おかしいなあ」と思っていて、Bは、「自死に追い込まれる状況まで考えれば”楽”なんて発想にはならない。ひどい奴だ」と思っているのだ。二人の中での論点は”楽”という言葉自体の範疇を出ず、”楽”という言葉によってもたらされる二人の世界観の違いが論点となってはいないのである。


皮肉なことに、カッとなるときほどそう言うことに頭が回らなくなるから、たちが悪い。これを書いている今の自分にも、思い当たる節が何個もある。反省しないといけない。



結局、変わるなら人間。しょうもない答えだけど、こうして書けば書くほど、自分の未熟さも浮き彫りとなるというものだ。