私たちが勉強をする本当の理由

なぜ勉強をしないといけないのか、と、この世で生きていれば多くの人は一度は考えたことはあるのではないだろうか。


そしてこれは、「人はなぜ知的好奇心に従って行動するのか」というような本能に関する疑問ではなくて、「将来使いもしないような教育を、何故小中と9年間も義務付けられるのか」という、この国の教育体制に関する疑問だろう。小学生なんかが親に問うのは、すべてこの場面だろう。


それに上手くこたえられる人間は、いるのだろうか。多くの親はなんとかその場しのぎの返事をし、子供も分かったような分かっていないような顔をして会話が終わるのが関の山と言ったところだろう。それもそのはずで、その疑問をぶつけられた親でさえ「なぜ勉強するのか」という問いに明確な答えを持ち合わせながら幼少期を過ごしておらず、「進学のため」「教師に言われるため」という外的な動機によって我慢してきた人間がほとんどのはずだ。だから子供に「なぜ勉強するのか」と聞かれても、「将来のため」とか、ひどい場合だと「ごちゃごちゃ言わずにやれ」と一蹴される。


嫌いな答えの例として、以下のようなものが挙げられる。


「今我慢すれば、将来楽できるから」

「何でやるか分からないから、いまやるんだ」

「将来の選択肢が増えるから」


などなど。これらは、勉強を楽しむという道を諦めたために、勉強を苦行として飲み込まざるを得なくなった人間の発言ではないだろうか。今が楽しくないから、せめて将来は報われると思い込むことで救われようとしていて、そんなことを繰り返した先で「我慢してきたのに望んだ未来はこんなはずじゃなかった」なんて思うのだ。小さいころにしてきたのが我慢の練習なら、上達するのも我慢の所作だけだ。結局就活だって仕事だって我慢の連続だ。年を取れば、諦めて「来世は報われる」とでも言うのだろうか。


僕自身、勉強は人生の一番の得意分野であり、趣味だった。QuizKnockみたいに特出した能力は持ち合わせなかったが、知らないことを学び答えを出す過程に夢中になれる人間だった。


ではなぜそのような人間になったかと言えば、小学校時代に通っていた学習塾での影響が最も大きかっただろう。


小学校から塾に通っていた僕は、それが何故かは分からないし覚えてもいないが、とにかく所属する教室の中で頭一つ抜けていた。計算の速度や暗記量など、すべてがカチッとハマっていく感覚があり、小6に卒業するまで最上位のクラスから一度も落ちることはなく、中学受験の合不合判定テストでも常に80%の合格率を記録した。しかしそれらは、「学ぶための勉強」ではなく、「クラスの中で(模試などであれば日本の中で)自分の頭の良さを確認するための勉強」であったのは間違いない。だから当時僕が感じたのは、学ぶ楽しさというより学ぶことによる驕りだった。勉強とは、自分が優れていることを証明するための機材に過ぎなかった。


このように心理面でまだまだ未熟な一面があれど、しかし10歳と少しという時期において自分の中での勉強方法が確立されていたという点は大きかった。成長するにつれ、大学受験などにおいても、小さいころに積み上げた基本的なものの考え方などは、遺憾なく発揮されたように感じる。


ここまで振り返り気付くのは、自分が勉強が楽しいと思える理由は、僕の中にはないということである。つまり、僕が勉強が楽しいと思えるという事実は、「小学校時代に学習塾に通う経験をしたこと」により生まれたのだから、なぜ勉強に不満を感じずにやれてこれたかと言われれば、「親が小学校時代に塾に通わせてくれたから」に他ならないのである。


ある能力を持ったうえで努力するかしないかを選ぶのは本人の意志だから、例えば「大学に受かった」という事実の原因は自分にも認められるが、しかしそのさらに根本の「勉強が楽しいと思える」という事実の原因は、自分にはないのである。たまたま自分がそういう人間だったから、としか言いようがない。




さて、僕の話は終わりにし、「なぜ勉強しないといけないのか」と思っている子供は、まさに勉強が楽しくないのだろう。楽しいことに疑問を感じる人間はいない。なんで僕はゲームをしているんだろうなんて考えながらテレビに向かい合う子供はまさかいるまい。


だから、そうした今勉強に苦しんでいる子供にとって処方箋となりうる選択肢は、以下の二つではないだろうか。


①勉強なんてしなくていいと伝える

②勉強が楽しいと思えるような人間にする


①の選択肢は、最も簡単だろう。勉強をしないと幸せになれないというのは全くのウソだし、もちろん修羅の道にはなるが、やりたいことを突き通すのは一つの道である。しかし、義務教育として最低でも15までは教育の義務がある以上、小学生はどんなに退屈だろうと教室に縛られないといけない。だから①は、万人の薬とはならないはずだ


だとしたら②になる。どうにか頑張って子供に「学校の授業楽しい!」とさせてしまえばいい。しかし、僕はこのことについても上で結論を出してしまった。

「勉強が楽しいと思える」という事実の原因は、自分にはないのである。たまたま自分がそういう人間だったから、としか言いようがない


あれ、と思うだろう。


この時点で、詰みとなる。実際詰んだと思う人が多いから、勉強を楽しむのは諦めて苦行の一種として飲み込む人が多いのだろう。



と、もちろん話をここで終わらせはしない。



②の方法は、勉強という言葉の意味を考え直すことで別のアプローチが出来るはずだ。


さて、勉強とは何だろう。子供が苦痛に感じている勉強とは、何だろう。


それは、「何故その知識が有用かも分からない状態で学べと押し付けられるもの」としての勉強だ。「知らないことを知り知的欲求を満たすもの」としての勉強には、子供は一切文句をつけていないはずなのである。


後者の意味合いでの勉強こそが本当の意味での「勉強」であり、それは一切例外なく万人が好きなのだ。知ることで貧しくなる人間はいない。自分が豊かになる過程に楽しいと思えない人間はいないという点で、真の意味での勉強を楽しむ能力は、神が平等に万人に授けているのである。


実際、「何で勉強をしないといけないのか」という発言こそが、まさにそうではないか。子供は純粋ながらに勉強する理由を知りたいと思っていて、それを周りに尋ねている。つまり「何で勉強をしないといけないのか」という疑問が浮上しそれを尋ねるという過程を踏めている時点で、その子は既に、真の意味で勉強しているのである。


だから例えば、「君は今勉強しているんだよ」という事実を伝えてあげることが、一つの対応として考えられないだろうか。知らないことを知ろうとする過程を踏める人間は少なからず立派なのである。子供の能力を伸ばすには、まず出来ていることを伝えることが重要な一歩目ではないだろうか。


と、考える。



しかしそれだけではまだ足りないことも多いだろう。例えば、計算が苦手で嫌いな子が、「計算なんて電卓でいいじゃないか。何で計算を自分でやる必要があるんだろう」と思ったとして、「そう思えるのは君が真の意味で勉強しているからだよ」なんて言われても、計算が嫌いな事実は変えられない。


そこで僕が提案できる一つの案は、「楽しめる人間で周りを埋める」である。


勉強が楽しいと言っている人間、勉強は我慢だと言っている人間、どちらに囲まれるのがいいだろう。答えは明らかだ。


先程、勉強を楽しいと思える理由は自分にはない、と言ったが、僕が勉強を楽しいと思える人間であったがために生まれた産物を共有することは出来るのである。


例えば、昔から計算が僕は好きだったから、通り過ぎる車を見ては、ナンバーの四つの数字で四則演算を使い10を作るゲームをよくやっていた(ドラゴン桜の影響)。計算が嫌いと言うならまずはゲームで遊んでみようという試みが、計算が嫌いな子のつっかえがとれる原因になれるかもしれない。そうした試行錯誤を重ねる事だって、立派な勉強だ。


今の時代、直接のコミュ二ケーションでなくとも、本やSNSなどを使っていろんなことができるはずだ。親の役割とは、「将来のため」と我慢を押し付けることではなく、勉強が楽しくなる媒体を共に探すことではないだろうか。



女王の教室』というドラマでの天海祐希のセリフを思い出す。

「先生…教えてください。私たちはどうして勉強するんですか」

いい加減目覚めなさい。まだわからないの? 勉強とはしないといけないものではなくて、自ずとしたいと思うものです」


その通りだ。


だから題に答えるなら、勉強をする理由は、「したいと思うから」だ。


その段階にないのならやることは一つ。したいと思えるきっかけをさがし、したいと思っている人間と話すことだ。