”作者”が”作品”になる―『えんとつ町のプペル』を見て―

えんとつ町のプペル』という映画を、先週に見た。

f:id:mattsun0383:20210115181954p:plain


キングコング西野亮廣さんが絵本作家として活動しているという事は映画公開よりも前から知っていて、近畿大学の卒業式のスピーチをたまたまYoutubeで見つけたことで、「ディズニーを超える」なんていう野望があることを知っていた。それが公開されたというので、ゼロから挑戦する姿に少なからずとも憧れてしまっていた僕は、それを見に行ったのである。


語彙力の不足が否めないけれど、すごい良かった。こうやって無謀な挑戦を後押ししてくれる人間がいるという事が、心から有難いことだと思った。今の自分に重なる感情なんかがあぶりだされて、登場人物の各々のセリフなんかも、西野さんが訴えたいことなのだろう、と思えた。


作品の内容に関しては、ネタバレになったりもするからあまり触れないとして、今回は別の角度から見た話だ。僕は『えんとつ町のプペル』を見て感じたのは、作者と作品が同一化している側面がある、ということである。即ち、映画の内容が、「これが西野さんの思いだろう」「この場面は西野さんが体験してきた今までの境遇を表してもいるのだろう」などとして頭の中で理解できるという事だ。


これの是非は後で書くとして、こんなことを考えていた僕は、似た記事をたまたま見つけた。


www.shachikudayo.com


この方も、「作者と作品を切り分けること」について書かれている。確かにこの世の作品は、「作者の意図が全面的に表れるもの」と「作者の意図をなるべく隠して純粋に作品を感じさせる努力をしたもの」の大きく二つに分かれそうだ。上の記事でも、鬼滅の刃の作者は表に出てこないことが言及されている。確かに、作者の名前の呼び方すら分からない人が多いだろう。鬼滅の刃は、「誰が」「どのような目的で」「どんな思いを込めて」書いたのか、そんな情報は表に現れてきていない。


さて、ここで二種類に大きく分類したが、まとめると

(1)この人がこんな思いで作った、と分かる作品 EX)『えんとつ町のプペル
(2)作者の意図を隠し、作品自体に集中させた作品 EX) 『鬼滅の刃

となる。人によって好き嫌いが分かれると思うのだけれど、僕は、どっちも好きだ。文化の違いみたいなもので、そこに優劣はないと思うし、どっちにも長短がある。ただ自分は、前者のタイプの作品には、一つ懸念すべき現代に特有な問題点があると考えている。


と、その問題点に入る前にまず、先ほど書いた「どっちにも長短がある」の意味を確認しておく。

(1)は、何より宣伝活動としてのメリットがある。自分が仮にYoutube近畿大学キンコン西野さんのスピーチを見ておらず、「『えんとつ町のプペル』が公開された」という情報のみしか僕の目の前に現れていなかったとしたら、僕はおそらくこの映画を見ていない。「世の中の挑戦する人たちを応援したいという西野亮廣の思いがこもっている作品」と事前に知っていたから、こういう作品に自分も背中を押してもらいたいと思い、自分は見に行ったのだ。だから、作者の意図を事前に公開することで、作品が人の目に触れる機会を増やすという事に成功している。

(2)は、一切の先入観なしに作品を自分で判断できるというところに一番のメリットがあるだろう。もちろん先に作品を見たまわりの人間の影響などはあれど、作者と作品が結びつかないことにより、「この作品が何を訴えたいのだろうか」という個人の感想は、作品を鑑賞した人間の数だけ生まれてくるはずだ。こうした多様性は、もしかすると(1)のタイプの作品には生まれづらいかもしれない。


そして、デメリットにこそ、自分が問題にしたい点が潜んでいる。実は自分は(2)のデメリットをあまり感じていない。問題は、(1)のデメリットだ。


僕は、24時間テレビという番組があまり好きではない。それはまさに(1)のデメリットと共通するところが多くて、「”作者”が”作品”になっているせいで”作品”が”作品”になっていない」という点なのである。


例えば、このブログは、まだ多くの人に読まれているようなものではないが、『過去にあった様々な悲劇を乗り越えて学んできた学生のブログ』というように紹介されて有名になったりするのは、少し嫌だと思ってしまう。なぜかと言うと、そうした宣伝文句によって僕のブログを読んでくださる人の目的のほとんどは、「このブログに何かの情報や価値観の共有を求めて」ではなく「悲劇からの脱却ストーリーとして消費するため」となってしまいそうで、それが自分には、少し怖いからだ。そう、僕の書く文章の作品が、作品としての意味を失ってしまうことが。


もちろん、どんなにここで素晴らしいことを書こうと、人の目に触れなければ意味がないかもしれない。こんなことに怖いと思っているのは意気地なしと思われそうだが、しかし、「僕の文章は僕の文章の”内容”のために読んで欲しい」という、プライドが――しょうもないといわれそうだが――自分にはあるのである。つまり客が求めるものは「僕個人の境遇(またはそれによって与えられる感動)」であって「僕個人の作品」ではないという構図になることが、自分にはなんとなく嫌なのだ。


これが即ち、題にも書いた「”作者”が”作品”になる」という事である。


だからなぜ24時間テレビがあまり好きではないかと言われれば、それを見る人が欲しているのは「登場する人間の中身」ではなく「登場する人間の境遇(あるいはそれによってもたらされる感動)」ではないかと思われることが多々あるからだ。もちろん、何かに挑戦することも、それに刺激され感動することも、美しいと思う。しかし、いつの間にか順序が逆になってはいないだろうか。「その人を見るため」ではなく「自分が感動するため」に24時間テレビに向かい合ってはいないだろうか。


作品はいつの間にか作品としての意味を失い、作品となっているのは作者の経歴となってしまうということがあると思うのである。


だから、僕はまさに(2)のタイプの作品を推してきた――――はずだった。


それが今回、『えんとつ町のプペル』を見て少し変わった気がするのである。24時間テレビがあまり好きではないというのなら、同じように作者の境遇が押し出された作品である『えんとつ町のプペル』を見る自分にも、同じようなことを思わなくてはいけないはずなのだ。「作品は作品を見て判断すべき」という自分の信念のようなものは、『えんとつ町のプペル』にあっけなく破壊されてしまったようにも感じられた。作者と作品のどちらが先行しようと、それで何かしらのインセンティブが得られるのなら良いのかな、とも思えている。


しかし、一つだけ重大な違いがあるとしたら、それは24時間テレビで扱うのは生身の人間だが、『えんとつ町のプペル』で扱うのはフィクションのキャラクターであるという事である。だから、「出演されている方に失礼ではないか」と思うことはあっても、「ルビッチ(映画の主人公)に失礼ではないか」と思うことはない。この点、やはり24時間テレビはあまり好きになれないという自分の気持ちを、再確認しているところだ。


まとめるなら、今の自分の考えはこうである。

(1)この人がこんな思いで作った、と分かる作品 EX)『えんとつ町のプペル

⇒多くメリットがあると思うし自分も影響を受けたが、作者の顔が重要で作品に重きが置かれなくなる、という現象に留意すべき(かも)。特に、世間でマイナスイメージで捉えられるような経験を「悲劇の中でのストーリー」として消費する事は、自分は好きではない。

(2)作者の意図を隠し、作品自体に集中させた作品 EX) 『鬼滅の刃

⇒自分の目指したい像。自分は自分の肩書などではなく、自分の指から生まれる文章に価値を見出したい。



ひとつの作品を見るだけで、ここまで考えられて、嬉しかった。人の作品に触れる面白さは、ここにあると思う。そうしたきっかけを与えてくれて、作品的にも勇気を分けてくれた『えんとつ町のプペル』にも、頭が上がらない。