いじめ自殺はなぜニュースになるのか

卒論を書き終えたうえでの、主な考えをまとめる時期として今ブログを書いているので、今までに続いてしばらく自死の記事となります。


しばらく自分が研究室で考えてきたのは、デュルケームが言うところの「無規制社会が呼び起こす、止み難い渇きによる自死」だったから、生きる手段を持ちながらも生きる目的を見失わされることによる自死を多く扱った。例えば、1998年に自殺率が急上昇し、そのきっかけは1998年に急上昇した失業率や急低下した出生率などに見出される。つまり、それらにより家族のまとまりとしての機能が下がったことが、個人を集団の一員として受け入れる社会形態を崩してしまったことで、自殺率を増やした。こうしたことが「厭世自殺」と多くの共通点があるのではないかという話は、前回の記事でしたばかりである。

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また、デュルケームが言うところの「無規制社会が呼び起こす自死」に関しては、以下の二つの記事の中で詳しく述べている。

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今回述べるのは、そことは反対にいるタイプの自死だ。


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これは過去に記事で使用した図だが(図の意味に関しては自殺を明かす、無慈悲な手順 【中編】 - おかえり、春の丘。を参照してください)、いじめ自殺や過労による自殺などは、この中であれば左下に分類されると自分は思っている。


学校の中で弱い者いじめにあうという事が、まさに教室の中での個人の身分の低さを表していて、そうした階級の中で生きていると感じさせることが、まさに「宿命主義」に当てはまる。また、「愛他」という表現ではしっくりこないが、いじめ自殺は少なくとも自己で完結する自死ではない。いじめによる恥の意識の喚起は、エスカレートすることで「自分さえいなくなればみんな幸せになる」という感情を惹起させることがあり、これは自己本位ではなく集団本位(集団のために死ぬ)のほうが当てはまる。


デュルケームも無規制自己本位の自死に多く注目していたから、こちらにはあまり目を向けていないが、いじめ自殺も、自死としてこの国に存在する以上、その構図を考えなければならない。そして、今までの記事を読んでいただいた方なら「またかよ」と思わせてしまうだろうが、いじめがメディアに取り上げられるようになった背景には、「社会の変動」が隠れているのである。


まず、いじめ自殺として初めて世間で認識されたのは、1979年の埼玉県で中学一年生が自殺した事件である。この少年は在日朝鮮人でもあり、差別問題としても扱われた。しかしこの頃ではまだいじめは自殺の動機として十分なものとして認められている状態ではなかった。しかしその後、1980年ごろから、いじめにより自殺したという事件が何件も続き、教育問題として世間に浸透してゆく。この時期のいじめへの関心は1980年代末には凡そ収まったが、1994~95年と2006~07年にかけて、それぞれの自殺の報道をきっかけに問題は再燃と鎮静化を繰り返し、再燃するたびに「いじめ⇒自殺」というストーリーをなぞるように命を絶つ子供が続いた。2012年には滋賀県大津市で中学二年生の男子生徒が自殺した事件で「自殺の練習をさせられていた」という記述がアンケートで明らかになったことが報道され、いじめ自殺はさらに問題化することとなる。
(以上、伊藤茂樹『「子どもの自殺」の社会学』p41~42より要約)


 では、このようにいじめと自殺が相互に関連するものと認められてきたのはなぜだろうか。それは、過去ではいじめがなかったが現代になり急増してきたという要因は重要ではない。もちろん関係がないということはないが、しかしそれよりは、いじめの起こる「教室」の役割が変化してきたという意味合いの方が大きい。『「子どもの自殺」の社会学』では、以下のように述べられる。

 学校は、将来もたらされる価値あるもののために現在は努力したり耐えたりするような場所から、現在安全に居心地よく過ごすことが重視されるような場所に変化した。つまり、何か別の価値あるもの(知識や地位など)を得る「手段」としての学校観(=未来志向で手段的な学校)から、そこにいられることにより得られる「充足」に重きを置く学校観(=現在志向で充足的な学校)への変化である。(略)学校の意味や学校への期待がこのように変化した状況において、子供が学校で安全に、快適に暮らすことを脅かすような事態は、何よりも避けるべき重大な問題とみなされる。(p72)


つまり、変化してきたのはいじめの内容というより、いじめを取り巻く環境なのである。これは、今まで見てきたデュルケームの自殺論にも大きく共通する点が見つけられる。戦時にしろ高度経済成長期にしろ、学校というものは「戦争に送られる兵を育成する」「進学による実績を出す」という強固たる目標があったのだ。しかしそうした社会全体で共有されるような目標が弱体化したことで、個人主義の風潮が強まり、まさにデュルケームの言うところの「止みがたい渇きの状態」へと突入した。上の図の矢印の向きにまさしく合致する。


先程も触れたように、いじめによる自殺は、デュルケーム自身ほとんど重視していない「宿命愛他型」に位置すると思われる(未来を閉ざされることにより起こる「奴隷の自殺」に類似する)。それは現代の社会が「自己無規制型」へと移行しているからに他ならないが、この自己無規制型へと社会が変動した事により、今まであまり目を向けられてこずにいた「様々な攻撃性」が目立つようになってしまったのである。


まとめると、下の図のようになる。


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(Wordで作成したため画質が悪いです。すみません)


要するに、変化したのはいじめの内容ではない。自殺率が低い戦時においても、成績や能力に欠ける者を貶める行為などいくらでもあったが、それらには「この戦時の世を生き抜くため」という確固たる目標があったのだ。それに比べれば今はそうではない。現代のいじめは、「乗り越えて強くなるもの」としての一面など、とうに消え、ただ安泰な生活を脅かすものとして機能した。だから、脅かすものと脅かされるものの対立構造として捉えられ、それは「殺人」と同等のイメージで捉えられる。有名人の自死でない限り、自死はニュースで報道されることはほとんどないが、いじめ自殺(強いられた過労によるものなども)に限ってそうでないのはこのためだ。人が人を殺したように見受けられれば、ニュースとなる。そのくせ裁判で自死といじめの関連が認められないことが常であることを考えると本当に皮肉な話である。


そしてこうした報道によって生まれる更なる被害が、「いじめられることに対するスティグマ性の増加」である。


「弱いものいじめ」という言葉がまかり通っているように、「いじめられることは弱いこと」という価値観は、まだ我々の社会の中から完全に抜けきっていないのだろう。「男なら立ち向かえ」とか、「逃げているだけでは何も始まらない」とか、そんな言葉をどこかで一度は聞いたことがあるだろう。


だから、「攻撃性」の的になることが社会問題として注目を浴びれば浴びるほど、「いじめられることが弱いこと」というスティグマ(つまり、弱者としての烙印)をどんどん増強させていき、個人の集団内での立ち位置をどんどんあやふやにさせていくのである。まずは、「いじめられるのは弱いこと」という価値観に対して「は?」と思える空気がない限り、なかなかいじめに立ち向かうのは難しい。


社会学を学んだ功績を、ひしひしと感じるばかりである。こうしてマクロに捉える視点がない限り、自分はいつまでたっても自死を自己責任論で片づける視点をぬぐえなかっただろう。




自死の捉え方による注釈

近日の記事を読み直し、誤解を与えることがありそうだと思い、ここに記すことにした。

「自己本位無規制型の社会による自殺」
⇒生きる手段があるが、生きる目的がない Ex)失業などによる自殺、厭世自殺
「愛他主義宿命主義型の社会による自殺」
⇒生きる意欲はあるが、その手段がない Ex) いじめ自殺、過労自殺、明治の精神錯乱による自殺

という2タイプに大きく分類してきたが、上のタイプの自死を、自己責任論に帰するつもりはないという事である。つまり、「大人なんだから失業したってそこから何かやり方はあるだろう、それで自死を選ぶのは浅はかである」というような意味合いで書いているわけではない。むしろその逆だ。自分は、どんな自死に対しても自己責任を問う事だけは絶対にしないと固く誓っている。「死ななければよかった」は机上の空論で、何がそうさせたかを追わない限り今後の進歩はない。

あくまで社会の働きに注目するうえでの分類であり、「大人になれば自己判断が出来るようになるべき」というような持論のもと分類をしているわけではないことを、記しておく。