厭世自殺の解釈〈明治に起こった自死の反転〉

自殺の一般のイメージと言えば、それは「未来を閉ざされた者が死を選ぶ」ということである。いじめ自殺や過労働による自殺のニュースが流れるたびに、故人を追い詰めたものに対するバッシングや、自死を防げなかったことに対する批判の声が相次ぐ。自死を防ぐなら、将来ある人間に対して「未来を見せる事」が重要だと謳われることが多い。


若者が亡くなることに関しては、この「未来を閉ざされたために亡くなる」ケースが多いかもしれないが、すべての年齢層で俯瞰して見れば、こうした自死とは異なる種類のものにも、目を向けなければならない。これが、「厭世自殺」である。


厭世とは、世が厭(いや)になる、と書く。しかしその「厭になる」とは、「もう今後自分の力ではどうやっても楽しく生きられない」というような感情のニュアンスとは異なる。「やろうと思えばいくらでもやりがいはあるが、それを追ったところでどうなるのか」というような感情に近い。自分の手段の不足ではなく、目的の不足によるものだ。


こうした厭世自殺が登場するのは、明治時代である。以下は、1800年代後半から、自死の動機別に統計を取ったものである。


f:id:mattsun0383:20210113173642p:plain

(貞包英之(2015)『スキャンダルとしての自殺:20世紀前半の「厭世自殺」の歴史社会的分析』山形大学紀要(社会科学)第45巻第2号別刷 p2~3 より引用)



右側に四つの動機が書かれており、その中のひとつに「厭世に因り」という項目があるのが分かる。そして厭世による自死は、1910年ごろから急上昇しているのが分かるだろう。代わりに、精神錯乱と、活計の困窮による自死は、この頃から著しい減少を見せている。このことから、どういったことが伺えるだろうか。


まず、動機というものが実にあやふやで、データとして信頼してよいものなのかは、議論の余地が大いにあることを理解しておくべきだろう。そもそも、自死の動機とは何だろう。○○が自死につながった、など、誰が分かるだろう。亡くなった本人の声など聞けず、聞けたとしても本人ですら何が何だか分かっていないこともある。遺族が納得できることが「動機」として認められている側面はあるように感じるし、納得できるのなら正しい間違っているは二の次、という風潮があるのは世の常だ。


だから上のようなデータを完全に鵜呑みにはしないまでも、しかし1900年から厭世自殺が姿を現したことには納得できる点が大いにある。


まず、明治時代における圧倒的な国力の増強である。国力の増強が厭世観を生むというのは、我々の感性に反するところだろう。「国が豊かになるとこの世が厭になる人が増える」と言っているのだから。しかし、国力の増強を深く考察すれば、納得がいくはずだ。


近代社会の発展は、出世や受験などの戦争を駆り立てた。そこにおいて敗れた者は、家庭や社会の中での孤立を強いられることになる。また、そうした戦争による勝者においても、この先負けてはならないというプレッシャーが襲い掛かる。それに対する心の安堵を追い求めるがために、哲学や文学に手を染めたものは、神経衰弱症に陥りやすいと考えられていたのだ。国力の増強とは即ち人々に求められる生活水準の上昇であり、これを「完全な幸福」と捉えるのは無理がありそうだ。


しかし、国力の増強による功績も同時に存在している。それがまさに、精神錯乱や活計の困窮による自死の減少である。これは我々の感性からしても納得がいくだろう。国が豊かになれば当然貧しい人間は減る。医療が発展すれば、病気などに苦しむ人間も減る。


つまり、1900年代前半において、全体の自殺率に大きな変動はないものの、その中身には大きな転換が起こっていたのである。


貧しい家に生まれれば貧しい生活を子供のころから強いられるし、親の持病を子供が受け継いでしまうことがよくあった。そうした本人の意思ではどうしようもないような遺伝的な要因の自殺が減少した代わりに、生きる手段が不足しているわけではない人間の「自由意志」による自殺が増加してきたのだ。


まさに、幸福な社会の全面的なデメリットとして現れている気がしてならない。


こうした考察より、現代においても考えてみると、言えることは以下のようなことではないだろうか。


自死で亡くなった人に対し「○○が彼/彼女の未来を閉ざしたのだろう」という推測は、あまりに独りよがりであるということだ。


○○に入りそうなことは、いくらでもあるだろう。失職や離婚、信頼していた人からの裏切り…など。しかしそれらは、未来を閉ざしたものだろうか。もちろん、亡くなった人からしてそう感じているとしても、それは「絶対的に」未来を閉ざしたものではない。周りとの比較により「相対的に」未来を閉ざしたのだ。


若いうちに必ず亡くなる病気を遺伝した者、家があまりに貧しく食事すらまともにとれなかった者。彼らは「絶対的に」未来を閉ざされたと表現してもいいかもしれない。そうした生活を続けている限り、少し先に死が見えてしまう。僕は、いじめ自殺なども、これに近いと思っている。


国が豊かになりそうした自死が減ってきた代償として厭世自殺が増えてきた歴史を踏まえれば、丁寧な解釈は


「○○が彼/彼女の未来を閉ざした」


「現代は、○○が彼/彼女に厭世観を植え付けるような社会となった」


ではないだろうかと言うのが、自分の意見だ。○○は、必ず自死の引き金となる事象ではない。○○があっても自死を招かないような社会だってある。


結局社会を見るべきだという考えに落ち着くあたり、今まで書いた自死の関連の記事とほとんど変わりはない。ただ、「厭世」という概念を知っておくことは、我々が想像しやすいような自死とは別の観点で物事を考えることにもつながるのではないかと感じた次第である。