「しらない」と「きらい」の解離


「知らない」ことと、「嫌いである」ということが、非常に紙一重で、近い距離にあるという話をしたい。ここをしっかりと分離できるということが、我々の生き方を快くすることにつながると思っている。


最近、自死遺族の方が、このようなツイートをしているのを見た。


年賀状に書かれた、あけましておめでとうの文字。こっちの気も知らずに、ふざけるな。何もおめでたくない。


胸に針が刺さるような思いをした。自分も、過去に自死遺族の会に出席した際に「あけましておめでとうございます」と言ってしまったことがあり、あとから大いに後悔した経験がある。

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僕は、こうした経験があるから、ご遺族の前でこうした発言は控えるべきという事を知っている。しかし、上のツイートをした方に年賀状を送られた方は、そうした経験がなかったから(もしくはその方の近くで自死があったことを知らなかったから)、そのような文章になったのだろう。


両者に責められるべき箇所など、無いのである。あるとしたら、不運な巡りあわせを起こしたこの世の神である。


ただ、学ぶべきことがあるとしたら、自分が知っていて他人の知らない知識を、一般知識だと捉えてしまう人間の傾向を知っておくことだろう。


すっぱいブドウという、イソップ物語がある。何の動物かは忘れたが、ある動物が、木になるブドウに手を伸ばすもなかなか手が届かず、ブドウを食べることができない。そのとき、こう言うのである。「あのブドウはすっぱいから、食べられなくて構わなかった」と。


すっぱいブドウとはこういった話だが、この逆も然りだ。つまり、自分が手に入れることのできたブドウこそが甘い、と周りにアピールしてしまうという事。甘いブドウを得られなかった他人の実力を低く見ることも起こり得る。


つまり、自分が手にいれられないものは「入手した先にメリットがない」と判断することで自己を正当化し、自分が手に入れられたものは「これを入手できるのは簡単だ(手に入れられない他人を馬鹿にする)」としたくなる本能が我々には存在するという事だ。上の年賀状の一件、ここにつながる話があるように思えるのだ。


「あけましておめでとう」を送った側に、一切の悪気はなかったはずだ。しかし、送られた側はそうはならない。目の前に「おめでとう」の文字を見たときにこみ上げる感情は相当のものだろう。「知った気になるな」「こっちはこんなに苦労しているのに」そんな感情をどこにぶつけるかと言えば、その矛先はまさにすっぱいブドウ現象なのだ。「あけましておめでとうが失礼な事くらい知っておけ」に転換されてゆく。


これが悪いことだとは思わない。感情の処理は人それぞれで、周りに明らかな迷惑を与えない限り何をしてもいい。だけれど、それで終わると、立場の違う二者の相互理解はどんどんと遅れていく。


ぺこぱの漫才ではないけれど、「知らないんだったら教えてあげよう」の姿勢がない限り、互いに意見は交わらない。


人々には自分の世界がある。努力だけではどうしようもない、育った環境や触れてきた価値観が、その人を構築する。自死と言うのは、それを180度大きく変えてしまうような出来事だ。体験しているかしていないかで、考え方は大きく変わる。そこで発生する、「互いが互いを知らない」ということが、いつの間にか「互いが互いを嫌い」に変わっているのだ。人間にこみ上げる感情のままに従うと。


ご自身の病気を話したときに「お辛いことを」と医師に言われて、「自らのアイデンティティは辛いこと」と言われたような気がして気分を害したとおっしゃっていた方の話を思い出した。医師の方も、何の悪気はなかっただろう。むしろ、最大限に配慮したうえでの発言だったはずだ。しかし、言葉は諸刃の剣となり、誰かの心を刺してしまうことがあるのである。


そこで起こすべき行動は、刺されたことを訴え、刺してしまった側はそれを受け取って迅速に対処することに他ならない。「しらない」が出てきたときに直ちに「きらい」へと脳内変換されてしまうのは、とても寂しい。


しかし、自分もそれを多くやってきた。自分は配慮しているつもりでも、多くの心を刺してきた。刺してしまった心のうち半分以上は、刺してしまったことにも気が付いていないのだろうと思う。反省ができ、そして刺された時には刺されたことを訴えられる環境を作らなくてはいけないと思った。