自立から依存へのパラダイムシフト


「依存」という言葉が、プラスの意味で使われることは、最近ではほとんど無いのではないか、と思う。つまり、依存という言葉は基本的に悪い意味で用いられる。―――何かに頼らないといけない情けない姿―――大げさに言えば、ここまで依存という言葉の持つ意味で人を貶めることができる。


僕は大学で文転して、考える題材はほとんどが答えの無いものになった。それまで習った数学や物理には必ず答えがあったが、年が進むにつれ、そうした問題だけ解いていればいいという時代が終わってゆく。建築学科に残っていたとしても、「どのような空間が求められているか」みたいな問いにぶち当たることがそのうちあったはずだから、文系の道に進んでいなくても、それは時間の問題だっただろう。


答えの無い問い。例えば、次のようなものがあった。


出生前に子供に障害があると分かったとき、その出生をやめることは、倫理的に問題があるか


出生前診断などの話題において、技術が進んだ代償として語られ得る倫理的問題である。障害があるという事を不幸と決めつけ子供を殺すのだ。良く思わない人がいることは間違いないだろう。しかし、生まれてずっと苦労するという事が分かっている親の気持ちになってみて、真っ先に否定されるような選択でもないという事はなんとなく想像がつく。これを課された当時の自分も、悩んだことを覚えている。


まず、他人の権力が絡むならばそれは断じて許されてはいけないという事までは理解できていた。宮城県において、障害があると判明した子を親本人の了承を得ずに流産させたという事例の記事を一緒に読んでいて、それに違憲の審判が下ったことまで知っていた。自然に考えたときに、家族単位で話し合うべき内容に他者が介入するのは違うだろうということに異を唱える人はほとんどいないのではないかと思う。


しかし重要なのはその先である。僕は、上の問いに対し、こう答えることしかできなかった。「他人の権力によりそうした選択を迫るのは論外だが、そうしたことを除けば、家族単位で決定すべき事柄である。本人たちの自らの決定を尊重できるよう、出生を推奨するも断念させるもなく、親権を持つ人々が決められる制度を作るべきではないか」と。


これが、「障害学」の観点から、ほぼ意味のない解答となっているという事に、僕は後々気付かされるのである。


僕はまさに、自己責任論を押し付けていたのだ。お前らのことはお前らで決めろ。上の自分の解答は、それしか言っていないのである。この授業の教授は、次のように言っていた。


私なら、「障害の社会モデル」について説明したあとに、患者さんに次のように話します。
まず、「障害のある子どもは不幸である」ということはないこと。仮に「不幸」になるとしたら、それは差別が原因であり、昔からその差別をなくそうとするために多くの人が戦い、運動に関わってきたこと。そして、もちろん難点はあるにせよかなり「マシ」な条約や法や制度が出来てきたことや、今後もそういった運動を続けていくことによって、差別がなくせる可能性もあること。

次に、自己責任論から脱却すること。「障害のある子どもは不幸である」という考えが、自己責任論に基づいているのだということ。一つには、その子ども本人に対する自己責任論です。「自分ひとりで自立できないのであればかわいそう」というやつですね。しかし、それは事実ではありません。つまり、私たちはいわゆる「健常者」もふくめ、全員が相互依存しあっているのであって、実際には誰一人「自立」などしていないのです。また、情報提供の問題もあります。行政のサービスが利用できることは知っていたとしても、それが実際にどのようなものであるのかは、多くの親は知りません。そのせいで、出産を断念してしまうということもありえます。もしそういった親が、「重度の障害をもっていたとしても、CILなどに関わり、自立生活を送っている人がたくさんいること」を知れば、判断は変わりうるのではないでしょうか。また、出生前診断でよく問題になるダウン症について言えば、「大変」「不幸せ」なイメージがなぜか先行していますが、実際にはダウン症の人の約90%が自分は幸せだと考えているというデータもあります。就労も出来ているケースも多いのです。


なかに、依存と自立という言葉が出てきている。そう、まさにこの二つの対照的な言葉の持つ意味について、自分はもっと深く考察をするべきだったのだ。例えば、次のような例を考えてみる。


今自分はビルの一階にいて、数階上まで登らなくてなならない。この時、僕にはエレベーターでもエスカレーターでも階段でも、どれで上ってもいい。どれかが工事中で使えなかったりしても、他に選ぶ手段があるから、比較的安全だ。しかし、車いすを使っている方にとっては、そうはいかない。エレベーター以外に手段がないから、エレベーターが壊れていたりしたら、一発アウトだ。


こうした状況を、人々は、「車いす生活は何かに依存しなくてはならないから不便だ」ととらえるのである。選択が絞り込まれることで、何か一つのものに頼らないといけないことが情けないことのように感じられるのだ。


しかし、本当だろうか。


依存しているのは、我々の方ではないだろうか。我々はエレベーターにもエスカレーターにも階段にも依存できているのだ。この世は健常者目線でどんどん便利になってきたから、依存できる対象が増えすぎて、そして一個一個の依存度が相対的に軽く見えているだけなのだ。それを「健常者は自立している」と認識してしまう我々の脳みそは、実に都合のいい解釈しかしていないのである。


ここまで考えると、上に出した自分の解答が馬鹿馬鹿しく思えてくる。まさに自分の解答は、健常者目線で作られた世の中の、健常者目線で構築された言葉の価値観でものを語っているだけで、本人たちのことを親身に考えているようで全くそうできていないのだ。


自立という言葉に込められた、強い人間になるという意味合いでのイデオロギーと、依存という言葉に込められた、頼らないと生きていけない弱々しい姿という意味合いでのイデオロギーを、交換してみてはどうだろうか。つまり、自立を「誰にも頼ることのできない孤独な世界」と捉え、依存を「共に支えあって生きていく社会的な姿」と捉えてみる。この時、障害のあると分かった子供を産むことの不安を完全に拭えはしないまでも、「障害を持って生きていくことが不幸」という価値観だけはさらさら消えているのではないだろうか。


これが、言葉というものの恐ろしさだと感じるばかりである。


自立が役に立つ世界線と、依存が役に立つ世界線の二種類がある。生きていくうえで何かに挑戦するとき、何も自分では決めずに周りに決めさせてばかりでうまくいくことはないだろう。つまり、「自立」こそを愛し、「依存」を毛嫌いする世界線が出来上がる。この世界線で生きていると、依存が役に立つ世界線に触れる機会が少ないから、依存は悪という価値観が浸透していく。「依存症」なんて言葉が出来上がった日には、それにさらに拍車がかかる。


依存とは、「他人や組織、モノに愛情や支持、保護、援助を求め、それがなくては生きていけない状態」を示す。誰もが胸に問いかけて欲しい。それがなくて人類は本当に生きていけるか? もちろん対象が麻薬とかであれば話は別だが、障碍者においてはその限りではないはずだ。


依存という言葉は、人々からの侮蔑のまなざしをあまりに吸収しすぎた。依存という言葉自体がもつイデオロギーに支配されている限り、バリアフリーの体系は実現できない。


もう一回、自分の解答を振り返る。


他人の権力によりそうした選択を迫るのは論外だが、そうしたことを除けば、家族単位で決定すべき事柄である。本人たちの自らの決定を尊重できるよう、出生を推奨するも断念させるもなく、親権を持つ人々が決められる制度を作るべきではないか


作るべきは、「親権を持つ人々が決められる制度」ではなく、「親権を持つ人々に生のインスピレーションを与えられる制度」に他ならない。それを依存と言って笑う人間がいるのであれば、障害について考えたことのある我々が、そうした価値観を止める盾とならないといけない。


こうしたことを考えると、障害などの話に限らず、言葉の持つ意味の面白い側面が見えてきたりする。言葉を紡ぐとき、操るのは文字ではなく概念だ。背景を疑っていく姿勢に、面白さを感じることのできる人々が増えていけば嬉しいと感じている。