自殺を明かす、無慈悲な手順 【後編】

三つの記事にまたがってまで何かを書いたのは初めてになる。前回と、前々回に書いた記事の、最後の付け足しを行うことにする。

www.mattsun.work

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とはいっても、自死の話は前回まででほとんど終えている。今回書くのは、そうした理論的な話とは別枠の、個人的な感情に関する語りである。タイトルを、『自殺を明かす無慈悲な手順』としてきたけれど、今までしてきた話は『自殺を明かす手順』であり、そこになぜ無慈悲だと感じたかを今回補足する。


無慈悲と言っても、誤解していただきたくないのは、社会学などの観点から自死を解明しようとすること自体に対する批判などではないという事だ。研究者目線での語りに加えることでさらに良くなるものがあるのではないかと思っているだけで、研究自体に自分が何か疑問を感じているわけではない。


今までの二つの記事をまとめるなら、自死は社会の変数として動くものであるという事を理解できないと、現象の解明は遠いという話だった。


自死を学ぶことを通し、卒論まで書いたうえで、僕が最も寂しいと思ったのにはここに尽きる。卒論を書く上で、自死を通じた誰かの声なんて、全く必要なかったのだ。


もちろん、卒論を書くにあたって参考にした文献が山ほどあって、過去の論文などを読んだけれど、その文献を書いた人はまた誰かの声を聴いてそれを書いているはずだから、直接的にはそうでなくとも間接的には聞いていることにはなるかもしれない。でも、直接的には誰の声も聞かずに、卒業が認められる程度の、自死の文章が書けてしまったのだ。


このブログの自死のカテゴリーから見てもらうと分かるように、自分は自死遺族の会に何回か出向いて話を聞いたことがある。このことは人生においては大いに役に立ったが、卒論を書く上では役に立たなかった。役に立たなかったというか、個人的なことを卒論に書いてはいけなかった。そうしてしまえば、自死研究の祖であるデュルケームの、「自殺を個人的悲劇として見るなら自殺は我々に何も教えてくれない」という言葉に真っ先に歯向かうことになるからだ。それを押し通して論文を書き上げるほどの知識は、自分にはなかった。


つまり、自分は大学生活で二方面から自死を攻めたのだ。一回目は、人の声を聞くという方法で、ミクロな視点で。二回目は、社会学から、マクロな視点で。


どちらにも長短がある。前者だけでは、自死の構造の大枠をつかみ損ねてしまうし、後者だけでは、人に寄り添えるような温かさが生まれにくくなってしまうような気がする。


自死と言うのは、そもそも稀な現象である。そして、実際に亡くなった人の声は、一生聞くことができない。残された遺族の方々からも、全員から話を聞けるわけではない。話を聞かせてほしいと思っても断られることなど山ほどある。そうした”声なき声”に心を澄ませることを、今後の人生において忘れることがあってはならないと、自分は考えている。


上に挙げた両者は、なかなか交わらないような気がする。自分は高校の時の経験を持って今のこのような研究に辿り着いたが、あの時に戻ったとして、自死が身近に起きた時、「個人的背景は置いておいて、社会的に考えてみよう」とはならない。もちろん時間がたつ中で様々なことを考えることが必要だが、その中でも、『自死の大枠を見損なわないこと』と『声なき声に耳を傾けること』の接合点となれるような表現方法を自分は模索したいと思っている。


来年度に行く先もなく不安な未来だが、やはり、個人がまっすぐに自分を表現できる空気を作ることに貢献したい。修羅の道になることは分かっているが、自分の残りの人生の全てをそうしたことに捧げるという事だけは、転学部が決まった瞬間から一秒もぶれない自分の軸としたいと思っている。