自殺を明かす、無慈悲な手順 【中編】

ちょうど前回の記事の続きです。先にこちらを、お読みください。

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本章(続き)


前回の要約は、戦時下で自殺率が極端に低かったという例をだしながら、重要なのは「不幸な出来事が自殺を増やす」という事ではなく、「不幸な出来事に社会がどう立ち向かっているかで自殺率が変動する」という事だと書いた。それはおおむね現代にも当てはまる。


戦争が終わって、高度経済成長期を経ながらどんどん豊かになっていったこの日本は、どのような社会になったと言えるだろうか。デュルケームは、以下のような図を出しながら説明している。


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デュルケームは社会の形態を上のように四分割した。縦軸は自己本位と愛他主義と書き、即ち、個人を個人としてみる社会なら前者、個人を欠かせない集団の一員として見る社会なら後者となる。横軸は個人に対する規制の強さを表し、生まれながらにやることが決まっているような社会(即ち宗教的な意味合いが強い)では宿命主義に、個人の役割を決めつけず何をやってもいいという社会なら無規制に偏る。


そして、真ん中の矢印こそが、ここ100年程での社会の変動を意味する。


戦時下など昭和では、産まれた家柄や性別などでやることが決まっていた(即ち、宿命主義)。そして決まっていた役割の向かう先は全て「おくにのため」と言う共同意識で、戦うのはなぜかと言われたらそれは愛する母国のためという決意が固まっていた(即ち、愛他主義)。


それが現代ではどうだろう。近年ではコンビニのお母さん食堂が問題となるくらいに、性別などが役割を決めることを嫌う文化になりつつあるだろう(即ち、無規制)。そうした風潮のもとに生まれるのは、自由を開拓するのならその先何をするかは自分一人で決め進まねばならないという「個人主義」の雰囲気だ(即ち、自己本位)。


そして、この矢印に従うにつれ、自殺率がどんどん増えてきているのだ。デュルケームはこのことにも注目していて、「アノミーによる自殺」と呼んだ。アノミーとは即ち「止み難い渇き」という意味で使用されている。過去では身分などの縛りが多かったから、「意思はあるのにそれを達成するための手段がない」というケースが多かった。国が豊かになったことでそうしたケースが減った代わりに「手段は周りに溢れているが、自分の目指すところが分からない」という、追えども追えども満たされない「止み難き渇き」によって自殺者を出してしまう社会へと変容してきたのである。



ここまで聞いて、前回の記事で書いた、「何にも縛られず個人の自由な生き方を尊重することが、自殺を減らす」という考えも、はなはだ怪しかったという事が分かると思う。


断っておくと、自死を減らすなら個人の自由な生き方を尊重すべきではない、という考えになるわけではない。我々の目指すところはあくまで、「個人の自由な生き方を尊重することで自死を減らす」という働きを持った社会を作り上げることである。


そうした社会を作るうえで重要な知見は、以下のようなことだと思っている。


説明に便利なので、前回の記事より再掲

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日本では、第二次世界大戦を終えた後の 1950-80 年付近においては、現在より自殺率はかなり低かった。現在もこの頃も戦争は終わっているし、両者同じように「自己本位で無規制型の社会」と位置付けたにしても、このように差が生じているのはなぜだろうか。結論から言うならば、「自己本位で無規制型の風潮が自殺を抑制する社会」と「自己本位で無規制型の風潮が自殺を促進する社会」があるからである。日本ではおよそ 1980 年ごろに前者から後者へとの移行が見られた。ドイツの社会学者 ウルリヒ・ベックは、著書『危険社会』で次のように述べている。

50 年代と 60 年代にあっては、人間はどのような目標に向かって努力するのかという問いに対してはっきりと答えを出すことができた。その目標は、「幸せな」家族生活というカテゴリーの中にあり、マイホーム、新しい自動車、子供に良い教育を施すこと、自分たちの生活水準の向上等を実現する計画を伴っていた。今日、多くの者は別のことを誇る。そこで目標とされることは―――必然的に曖昧な―――「自己実現」「自分自身のアイデンティティの探求」「個人的能力の発達」「いつも向上しようとすること」である。(p190)


つまり、現代社会において個人が何をするべきかという課題を決めてきたものは、それまでは「信仰する宗教の神」や「それまでのその土地の慣習」といったものであったのが、時代が進むにつれ「各個人で決定しなくてはならなくなった」という社会的な背景が伺えるのである。そうした社会の移り変わりにより、個人の欲望はどんどん無限化した。「ヒトは制限を受けていないと感じれば感じるほど、いかなる制限にも耐えられない」と デュルケーム が述べるように、止みがたい渇きの中では、少
しの制約が彼らを絶望の淵へと陥れる。つまり、同じ「個人主義」の中でも、出世や家のローンなど目に見えるものを目指す風潮の強い社会と、そうした風潮とは違って曖昧な自己実現を目標とする社会では、また自殺率は大きく変わってくるのである。



だから大事なのはいつだって、社会が個人に何を要求してきたかなのである。社会なんていう曖昧な概念ではなく、もっと身近に起こったことに注目しないといけないだろうと思われるかもしれない。しかし、そうした個人の小さな振る舞いさえ、何が元かと言われれば漠然とした社会の雰囲気なのである。


ここまで読んでいただければ、前回出した例で触れていなかった、「失業が増えたことで自殺が増えたとき、その対策は失業を減らすことである」という考えが怪しいこともなんとなく想像できるのではないだろうか。


失業率の多さに問題はなく、見るべきは「失業が社会の中で何を意味するのか」なのである。会社に勤めながらも「何をしていいか分からない」という状況でいるなら、失業は個人の息苦しさからの解放を意味することもあるのである。「いやな仕事は思い切ってやめよう」みたいなことをTwitterで見たことがないだろうか。そういうことを言う人にとっては、失業はまさに「止み難い渇き」からの解放なのである。


失業が自死に結びつくのは、「失業が辛いことだから」というのは明らかに言葉が足りていない。失業が自死に結びつくのは、「失業がサラリーマンの一般ルートからの逸脱で恥ずべき事と思わせる社会形態だから」なのである。実際、市長が失業対策に力を入れている市では、失業率の低い他の市よりも自殺率が低いという研究データだってある。失業が何を思わせる社会なのかに目を向けなければ事態の改善はない。


終章


以上、自死を考えるなら社会を見ろという事を散々言って来た。上手くまとめられるかは分からないが、自分なりに分りやすく言うなら「点数ではなく偏差値を見よう」ということだ。


複数回のテストで、同じ点数をとっても、周りの点数が高くなったら自分の偏差値が下がる、と言う現象があるだろう。人々の目は点数に行きがちで、偏差値になかなか視線が向かないのである。


誰かが亡くなったとき「低い点数を取ってしまって、辛かったのだろう」みたいな思考になる。もちろん高い点数を取れれば悩むこともなかったのかもしれないが、しかし「低い点数を取ってしまったこと」などはどうでもよかったのだ。苦しい時に気になるのは点数よりも偏差値だ。「周りはあれだけできているのに自分だけできていない」「これは恥ずべきことだ」「これでは周りに顔向けできない」と言う思考は、低い点数ではなく低い偏差値によって生み出される。30点が低いと分かっていても、クラスの周りの誰もが30点だったらこうした悩みは出てきづらいはずだ。


もちろん30点のままではまずくて、そこから向上したいという気持ちは必要だが、そうした気持ちを生もうと思っても、「30点をまず受け入れる」という社会形態がないことには無理なのだ。


だから、職場、家庭、教室、人の所属するコミュニティで形成されるあらゆる「社会」を見つめなおさないとならない。これが丁寧にできる人というのも、なかなかに少ないと思う。自分も、そうならなくてはならない。


次回の後編でまとめとする。


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