蔓延る「普通」と、頑張れない京大生。


卒論を最後に仕上げて、教授に見てもらった。最終のOKが出たので、あとは印刷して提出するだけの状態になった。その時に、自分の卒論をずっと指導してくれた教授が、転学部を志願する人との面接が最近あった、と言っていた。


もうかれこれ、自分も全く同じ面接を受けてから、二年の年月が経つ。


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時間というものは本当に早い。一瞬だった。で、意外なことを聞いた。


まず、二年生から三年生へと、ストレートで転学部出来る人間は、毎年だいたい、0か1人しかいないらしい。一年生から二年生へと進級するタイミングで転学部を志願する人もいるから母数はそこまでいないのだけれど、それでも珍しいらしい。自分はストレートだったから、どうしてだろうと言ったら、「入試の点数か、入学してからの成績がよっぽど良かったんじゃない」とのこと。


とても嫌味な言い方になってしまうかもしれないけれど、自分は全くそんな優秀な人間でいるつもりではなかった。入試の点数は辛うじて合格者平均を超えたくらい、単位は結構落としていた。


だから、自分は相当に幸せな大学生活を送らせてもらったのだな、としみじみと感じた。もちろん、留年が不幸なんてこれっぽっちも思ってはいないけれど。


そして、教授はもう少し嘆いていることがあった。というのも、転学部を志願する生徒の中には、毎年、留年を繰り返して五回生とかになった理学部や工学部の学生もいるらしい。


これを聞いて、皆さんはどう思うだろうか。


「そんなさぼっている人間だから転学部しても待つ未来は同じ」
「転学部したいのはどうせ楽をしたいからだろう」


こう思うのなら、僕とは意見があまり合わないだろう。


ただやはり、このような学生は、そうした留年などの経歴があるという時点で、転学部の受け入れから真っ先に後回しにされるらしい。それは仕方ないだろう。単位に不足なく進級した人間と、留年を繰り返す人間を100人ずつくらい集めたら、本当に何も考えず過ごしているようなぐうたらが出てくる確率は、間違いなく前者の方が低い。転学部を受け入れる側だって、そんな確率の低い賭けに、数少ない転学部の受け入れ人数を割けるわけがない。


でも、しかしだ。あくまで、確率だ。留年は不真面目の称号ではない。


「結局、”どこに行っても頑張れる人”が、どの組織も欲しいんですよ」と教授は言っていた。



どこに行っても頑張れる人とは、いったいなんだろう。そんな人いるのだろうか。



僕は、京都大学工学部建築学科では、頑張れなかった。僕は”建築士”という仕事に漠然と憧れたからそこに入学したが、いざ入学して、何かをデッサンしたり、模型を作ったりすることがあまり楽しくなかった。それはなぜかと言われたら、今はこうとしか答えられない。


考えていたことが「○○になりたい」だけで、「○○をこうしたい」ではなかったから。


建築士になるのは憧れていたけど、日本の建築をこうしたいとか、こんな空間を作り出すために勉強してみたい、みたいな感情はさらさらなかったのである。そしてそれを、大学の前半では僕は見つけられなかった。代わりにふつふつと湧いてきたのは、僕が高校で友人を自死で亡くして以来のモヤモヤとした感情に対する処方箋を必要とする気持ちだった。


だから、転学部してからは、それはそれは上手くいった。自死に関する世間のイメージをこうしたいという強い気持ちがあったし、心理学や社会学を勉強して得られた知識が全て過去の自分につながった。とても面白かった。建築学科では1を割っていたGPAは、今になっては3を超えた。


建築学科で過ごしていた自分を「ああお前は頑張れない人間だな」と面接で思われていたら、僕の転学部は成功していない。もちろん建築学科でそこそこに単位を取っていたからだと言われればそうだけど、「進級のためには仕方ない」と思って嫌々勉強しただけだ。頑張ったわけではない。



だから。。。



上手くは言えないけれど、人の過去を見て頑張れない人間だと決めつけることにほとんど価値はないと思うのだ。面接を経て学生を落とす大学側も、「お前は頑張れない人間だ」と決めつけにかかっているとは思わない。「君にも苦悩があったと思うけれど、ごめんね」くらいの気持ちかもしれない。でもそれは学生側には伝わらない。経歴によって後回しにされる以上、「頑張れない人間側」のレッテルが付きまとう。皮肉なほどに仕方のない理不尽だと思う。


留年、休学、就職浪人。頑張れない人間のレッテルにつながる概念が、いくらでもある。そうした人間が就活で後回しにされるとか、仕方のない理不尽はいくらでもあるが、その仕方のない理不尽を見たうえで「あいつは頑張れない人間か」と感じる感性にはあまりに問題がある。本当に大雑把に言ってしまえば、興味のないことに目的をもって頑張れる人間などいないし、興味のあることなら誰でも頑張れる。


自分が必死になれるものを見つける旅が終わっていないことは、非難されるようなことでは、絶対にない。


では、そうした人たちがなぜ頑張れないかと言えば、それはこのブログですでに答えが出ている。僕は前半、こう書いた。

とても嫌味な言い方になってしまうかもしれないけれど、自分は全くそんな優秀な人間でいるつもりではなかった。入試の点数は辛うじて合格者平均を超えたくらい、単位は結構落としていた。


ここにすべてが集約されている。基準はすべて、自分の所属するコミュニティなのだ。実際、京都大学に入学できるというだけで、日本の学生の上位数%に位置する。他の学生からしたらまさに「神の領域」と思われるような場所で、人は悩むのである。僕もそうだ。自分より百点も高い点数で入試をパスし、目的意識を持って夜な夜な建築の課題に取り組む同級生が眩しかった。それに比べて自分は何がしたいのだろうと何回か問いかけた。


他にも例えば、年収200万、これを低いと思うだろうか。日本では平均を割るかもしれないが、しかし世界で見たらトップエリートなのである。人間は、自分が基準とした集団内の立ち位置で幸不幸を測ってしまう生き物でもあるのだ。


僕たちは、図らずも危うく脆い「普通」に侵食されている。京都大学工学部建築学科に身を置けば、目的意識を持って建築の勉強に取り組むことが「普通」になる。日本に住んでいれば、月30万くらいは稼ぐことが「普通」になる。


でも、しかしだ。例えば、大学の進学率は、だいたい50%だ。なのに大学に行くことが当然の環境で過ごし大学へと進学した人間が「いやーどこか大学くらいは行くのが普通でしょ」と言ってしまえば、それは、「いやー日本人は普通男でしょ」と言っているのに変わらないくらいに暴論となるのである。


そして、そうした暴論の上に、「頑張れない京大生」が出来上がっているのだ。京大に行くほどの頭を以て留年なんて普通じゃない。そういう観念とそう思わせる社会のもとに、堕落した人間の像が出来上がる。こればっかりは、仕方のない理不尽ではない。個人の意識で何とか出来る理不尽だ。


とにかく、普通を疑っていかないと。


人は、そういうことで死ぬんだ。逆に言えば、「普通」で人は殺せるんだ。


今求められているのは、こういう思考じゃないかと、僕は考えている。