消費されゆく”題材”としての自死


自分の中でパッと何かを思いついたときのような、そんな価値観の変化が起きたのは、去年の秋のことだ。


医学部の編入試験を受けていた僕は、滋賀医科大学の二次試験を受けに行った。一次試験では学力試験が課され、それをクリアした人間には二次試験の扉が開き、そこでは小論文と面接試験が課された。


滋賀医科大学は日本の中で最も医学部編入の受け入れ人数が多く、15人の合格者が出るから、それだけあって、受験者も多い。一次試験を受けたのは300人少しで、二次試験ではそれが50人くらいにまで絞られていた。


小論文も面接も、これと言って対策できることがない。もちろんゼロではないけど、学力試験に比べれば対策のウエイトは低かった。対策してきたことをやろう、というよりは、「自分の素を話そう、書こう」という気持ちでいた。


小論文というものは、自分が考えたことである題材でないと書きにくい。どんな題材でも筋道立てて書けるように努力するが、なるべく書きやすいものがいいと願っていた。



そして問題冊子を開いたら、真っ先に出題内容は目に飛び込んできた。その内容に、おもわず「うわあ」と心中で声を漏らした。


題:過去の自殺率の変動をもとに、今後10年自殺率はどう変化するか予測せよ。加えて、若者の自殺を減らすために必要な施策を述べよ。


書きやすい題材、どころの話ではなかった。自分が総合人間学部に転学部して以来、考えない日はなかったような題材だった。書くことがありすぎて、何を書いたら分からないという、幸せな意味で困ってしまった。


ちょうど社会学に関することも学んでいたから、そういうことにもポツポツ触れながら、どんどん書き進めた。ペンが止まることはなかった。


しかし、書き始めて解答欄の半分を埋めたくらいの時である。僕はふと顔を上げた。


そこにいたまわりの50人ほども、みんな誰もが必死に解答用紙に向かい合っていた。真剣な顔持ちで、きっと、どうしたら採点官に伝わりやすいだろうかとか、そんなことを考えているのだろう。



僕はその光景を、真っ先に、気持ち悪いと思ってしまった。



初めに断っておくと、その状況において、僕は誰か批判したい相手がいたわけではない。周りで必死にペンを握る受験生にも、そのような出題をした大学の人間にも、何か直してほしいような態度があったわけではない。これはあくまで、僕の感性との勝負だ。周りに敵がいたわけではない。


何故気持ち悪いと思ったのか。その理由は、主に次のような点に見出される。


まず、周りで必死に答案を埋める人間の中でも、自死が身近に起きた人間はごく少数だろう(不幸自慢のようなニュアンスで文章を書きたいわけではないという事は、再三断っておきたい)。そうした人が理路整然と自死に関する話をまとめようとしているのは、いささか滑稽に感じられるのである。

なぜなら、自死という現象を簡単に理路整然にまとめられる人間ほど、自死には大して興味がないからだ。自分ももちろん自死を題材に卒論を書いたが、学べば学ぶほど感じるのは自死と言う現象の難解さである。

もちろん、分かっている。試験で問われているのは、今後の変動と対策の予測であって、「自殺を語れ」なんて大学は聞いてない。自分の知識を以て予測しろと言っているだけだ。それをここまでに感じてしまうのは、僕の感性がゆがんでいるせいだと言われればそうかもしれない。


次に、周りの受験生が自死について意見をまとめている目的が「大学に受かるため」であるという点である。彼らはだれ一人、自殺を減らしたいという理由で自殺の対策を書いているわけではないのだ。「意見を分かりやすく他人に伝えることのできる人間を選出したい」という目的のため、それを見極める題材として、自死が選ばれている。きっと、試験が終わっても「自死の対策を…」と考えている受験生は僅かではないかと予測する。



僕は、大事なのは、自らを死に追いやってしまいそうになるほどの感情を理路整然とまとめることだとは思っていない。そうなるほどになってしまった当人の感情はきっとぐちゃぐちゃだ。そのぐちゃぐちゃをぐちゃぐちゃなままに愛し、頑張ったね、辛かったね、と声をかけることが一番に優先されるべきだと思っている。


人を救うのは、「人はいつもぶれてはいけない」とか「心はいつも強くないといけない」みたいな、逞しい正論ではないのだ。正論は、何も非の打ち所がないくらいに正しいせいで、正論に辿り着けない姿を惨めだと思わせてしまうような魔の力が潜んでいると感じることがある。心は弱くあるより強くあった方がいい、そんなことは万人が分かっている。でもそうなれない原因がどこかにあって、その姿をそのままに受け入れるという段階を踏まずに、突然人が強くなることはない。



こんなふうに思ったことが理由で、自死を題材にした小論文を前に、浮かない気持ちで時間を過ごした。こんなことを答案に書いてもそれは論文ではなくて感想文になってしまうから、残り半分の答案も、小論文としての体をなすように、しっかり埋めた。





くどいと思われるかもしれないけれど、周りの受験生にもこの題を課した大学にも、何か不満があるわけではない。仮に僕の知らない病気の出題がされた時には、一生懸命に答案を埋める僕の姿は、誰かから見たら滑稽だ。僕は「気持ち悪い」と思ってしまったけれど、自死に関してあまり考えたことのなかった人が、小論文の題として自死を出題されたことで、自死に関して興味を持ち調べることがあるかもしれない。何があるか分からないこの世の中で、「自死を小論文に使うな」「理路整然と書こうとするな」みたいな主張が的外れなことを僕が理解しているという事は、これを読む皆さんに分かって欲しい。


だから、僕はこの件に関して、まわりの何かを変えようとは思わない。


変わるとしたら、もちろん自分だ。


正しい知識をしっかりまとめつつ、個人の感情、個人の人生にも寄り添える文章が書きたくなった。正しいことを正しいと書くだけで終わらせる文章は何か寂しい気がしてしまって、がむしゃらに行動した末に待っている感情を肯定できるような文章を書きたくなった。



ということで、一本の小説を書き上げた。13万字くらいで、書き終えたときにはすごい達成感があった。本なんて書いたことがなかったからド素人でしかないけれど、こうした表現方法も一つありだな、と思った。



今は夢を語る気分になれないから、このへんでやめておく。