大学生に課される「自己責任論」からの脱却

久しぶりにブログを書きますが、ちょっと一つ訴えたいことができたためです。


自分は京都大学の体育会に所属しています。体育会に所属しているというのは即ち「部活動に所属する部員である」ということです。何部なのかについては伏せます。


現在京大では、課外活動は一律に認められていない状況にあります。


それが九月ごろから再開を認めるということでした。しかしそれには条件としてガイドラインの理解が欠かせないとし、先日、この体育会に所属する部員に向けて、一律で「体育会のガイドラインを理解できているか」を確認するためにWEBテストが行われました。


そして、そのWEBテストの冒頭、体育会役員の方はこのように言いました。


「本学の体育会部員に発生したクラスターは、体育会ガイドラインを理解できていなかったために発生した恐れがある」


もちろん、「恐れがある」という風に可能性の話をしているだけだというのは承知のうえで、しかし「感染者に非がある」という視点は本当に危険なものであると感じており、加えて、世間の大学生はそうした視点の餌食となっているように、今自分は感じています。


体育会の情報は外に漏らしてはいけないという事なので詳しいことは書けませんが、感染した京大の体育会の部員は外での飲食をともに行っていたそうです。それ以上のことは自分もよく知らず、アルコールの摂取があったのかなどは知りません。


では仮に、アルコールの摂取があったり、複数人での会食があったとして、彼らは本当に非難されるべきなのでしょうか。

感染に対する視線


四つのパターンがあり得ます。

ガイドラインを守り、感染もしなかった。

→模範的な姿

ガイドラインを守っていなかったが、感染しなかった。

→本人が悪いが、非難の的にはならない

ガイドラインを守ったが、感染した。

→防げないものは防げないこともある、仕方ない(即ち、本人は悪くなく、ウイルスが悪い

ガイドラインを守らなかったため、感染した。

本人が悪い

体育会の意図としては、③は仕方ないにしても、④を減らしたいという事でしょう。一人一人の取り組みで感染リスクを減らすことができるのならば、それはすぐにでも取り組むべき課題であることに異論はありません。


しかし問題なのは、ガイドラインという一つの指標の設定により、悪いものの対象がコロッと変わってしまうという事です。


京大の体育会のガイドラインに乗っ取るのであれば、以下のようなことになります。

一人で新幹線で東京を経由して京都に戻った人が発症した→ガイドラインを守っていないとみなされます。

感染拡大地域を経由せずに、三人での旅行を行って京都に戻った人が発症した→ガイドラインは守っていた、とみなされます。


その時、前者には「お前が悪い」、後者には「ウイルスが悪いから仕方ない」という視点が貼り付くことでしょう。


自分ははっきり言って、馬鹿馬鹿しいと感じてしまいます。



感染リスクを減らすために自分たちがこのようなことに気を付けよう、という意思を固めるために、その団体内で決まりごとのようなものを設けるといった行為は、誰もが取り組むべきことでしょう。


しかしそこで設定したその団体内の指標というものは


決してウイルス駆除のための正義の教科書ではない


のです。


今後コロナウイルスのことがどんどん明らかになっていくにつれて、「アレはやってなくても関係なかったね」とか「これを一番にやっておかないといけなかったんだね」などと言って、この先どんどん変わっていくものであってしかるべきなのです。


そんなものを指標にし、そこからどっちにずれているかで感染者の本人の是非を問うのは、あまりに無意味なことではないでしょうか。




大学生への視線


授業は全部オンラインになり、課外活動が禁止されてかれこれ五か月が過ぎました。


授業と部活を取られたら、自分にはやることがはっきり言ってありません。


以前、#大学生の日常も大切だ、というツイートが話題になりました。


自分もまさに感じるのは、大学生なら家で勉強できるだろ我慢しろ、というような視点です。


一人でもできるものというところに全く間違いはありませんが、生身のコミュニケーションなどに勝る勉強はありません。五か月もずっと家でバットを素振りしていても、野球には飽きるでしょう。


地区大会で運動の大会などが行われているところもあれば、京都市街でも人がうんさかいたります。そんな現状で、我々大学生が活動のほぼすべてを封じられています。


もし大学生の日常が戻ったとして、そこでクラスターなどが発生してしまえば、きっと大いに叩かれるでしょうし、それはやはり大学からしても怖いでしょう。しかし、そこで大学もしくは感染者を叩くような風潮が発生したとして、そのどこに皆さんは正義を感じるのでしょうか。


www.mattsun.work


この記事でも書いたように、日本では規律訓練で育ってきた空気感というものがありますから、何か一つの設定した基準から逸れているかで物事を判断しがちです。


しかし、その基準自体の曖昧さにまずは気付いてほしいです。


そのあいまいな基準からどれだけ逸れているかで個人を図る行為に意味はないと感じますし、自分たちが考えて設定した基準を守りそのうえで起きてしまう不幸は、はっきり言って仕方ありません。そこに関しては起きた後に考えるほかありません。


卒業まで半年少しになりましたが、少しでも状況が改善されることを願います。