コロナ社会① 自粛警察の権力を考える

22歳になり初めての記事です。


最近は専ら大学の授業もオンラインで、与えられた文章を読むような時間ばかりなので退屈なのですが、しかしその中で非常に考えさせられる題材を扱ったので、このことを自分のメモリーとして残しておこうと思い、今回これを書き残すこととしました。


さてその題材とは、フーコーの権力についての話です。詳しい話はあまり書きませんが、そこから現代に結びつけてどう考えられるかな、という話です。

権力とは??


みなさんは、権力とは何かと聞かれて、どのように答えるでしょうか。辞書ではこのように書いています。

他人を支配し、服従させる力。支配者が(組織・富・武力などを背景として)被支配者に加える強制力。


権力とはこのような考えであることがほとんどだと思うので、ここにはケチをつけません。


ここで大事なのは、権力とは何か目に見える固形物ではないので、何かを見て「あ、それ権力!」ということは出来ません。ではどこまでが権力であり、どこまでが強制なのでしょうか。

「見えない」権力

精神分析などの授業において、フーコーの話題を扱ったとき、その中でこのような記述がありました。

例えば監獄があり、そこに入れられている囚人は、見張り塔から監視員によって見られている。しかし囚人の位置からは見張り塔に本当に監視員がいて見られているかどうかは分からない。初めはちゃんと監視員が見ていたが、そのうち監視員がいなくなってしまったとしても、囚人からすれば監視員に見られているかもしれない可能性を捨てられないため、囚人はおとなしくなる。


なるほど納得な話だと思うのですが、ここで、監視員がいなくても囚人がおとなしくなる現象を、「視点の内在化」と呼びます。誰一人あなたを見ていないのに、しかし唯一の視点が自分の中に存在しているわけです。


こうした話は現代にも言えることがいっぱいあるんじゃないかなと思います。


例えば、小学中学と義務教育を行っているのは、親や教師の下で監視されながら勉強し、子供の中で視点を内在化させることで、言われなくても勉強をするような環境を作りだし、ゆくゆくは国のために働く人材を作ることと考えることができます。学校に通い机に座って話を聞くことだけを当たり前にしてきた我々の環境では、能動的に考えて行動することはどんどん苦手になってしまってもおかしくありません。

だからメンタルケアは「自分のしたいことをしよう」というような方向に向くわけです。



これを聞いたとき、今まで何気なく過ごしてきた環境が操作されていたというような不思議な気持ちになり、洗脳を受けていたかのような不思議な気持ちになっていたのを覚えています。


この世で自分が頑張ってきて楽しかったのは何かと聞かれたらおそらくそれは勉強で、自分はもちろん誰かに強制させられて勉強をしてきたつもりはないし、ある程度は自分の進路を自分で決めてきたと思っていました。


しかし、それが、この日本という国がそういう雰囲気であったから、つまり見えない権力に操られていたから、と言われればそのような気もします。


もし自分が旧石器時代に生まれていたら自分の趣味はマンモス狩りとかになってて、おそらく学問ではないでしょう。だったら自分の取り組んでいることは、その時代背景が最も大きな要因であると考えることもできて、つまりそれは、


先人たちが築き上げてきたこの社会による「権力」


ともいえると思うのです。


(かなり屁理屈臭い意見ですが。。。)




でも確かに、例えば戦時中では戦争はほとんどの人間が賛同しており、日本がどんな不利な状況だろうと、そして日本がもう負けそうだという事をなんとなく勘づきながらも、まだ戦えるという洗脳によって日本人が動いていました。もうこんなことはやめた方がいいと思いはしても実際にそう声を上げることができなかった、そうさせたのは間違いなくその当時の雰囲気であり、当時の政権がそのような「権力」を持っていた、と考えることはできると思いました。


結局「その場の空気」というものに人間は一番弱く、空気そのものが「権力」なわけです。


自粛警察の権力

例えばコロナウイルスが蔓延した現在の社会において、「自粛警察」という言葉がはやりました。関係のない他人に外出の自粛を要請したりすることを指していると思うのですが、このような名前はついていないものの、例えばマスクをせずに外出すると周りから白い目で見られるということは、現代往々にしてあると思います。


こうしたことが起こるのはなぜなのだろうかと考えたときに、



日本は規律訓練によって鍛えられてきたからである



という答えが一つとして出せるのではないかと思いました。我々は普段から、見えない形のない「社会的規範」というものをあらかじめ用意していて、そしてそれを権力として用いているのです。


自粛警察に出会ったら、鬱陶しいという感情が前に出てくることが多いと思いますが、しかし同時にこうした現象が出てくるのは全くおかしなことではないとも思います。


なぜなら我々は常に他人の社会的規範にさらされながら生きてきており、それに対抗する手段としては、自分も社会的規範を用意して他人に対して権力を振りかざすよりほかはないからです。他人に強制されたルールはどんどん自分の中で内在化するでしょう。例えば、子供のころから勉強に励んできた子供が将来図書館で騒ぐような人間になるとは考えにくいです。そうした環境で育ってきたその人の背景がその人間に権力を内在化させ、そしてその人は、もしこの先図書館で騒ぐ人がいたら注意をするでしょう。


他人の権力は自分の権力となり、その権力をさらに他人のものとしてしまうような流れってあるんじゃないかなと思った次第です。


そういう点では、誰かに何かを強制するという行為は意識して行ってはいないものの、自分も様々な権力を多く振りかざしてきた、という事は言えると思います。もちろんそんなつもりはないのですが、しかしある程度のポリシーを持った自分の存在は、それだけで他人への権力となり得ます。

まとめ


それを善か悪かの二元論で問うのは意味のない行為だと思うのですが、しかしここから考えて大事だと思うことは以下の通りです。

①他人の権力に屈する必要はないという事。


これは、注意されても図書館で騒ぎ続けていいみたいな話ではなくて、例えば何かを訴える際に見えない権力におびえる必要はさらさらないということです。


先ほども述べたようにこの国の今の雰囲気を「規律訓練」と呼ぶのなら、ヒトの中に見えない物差しができてしまうことは多いと思うので、まずはそうした基準を捨てて思うままに生きてみたいと思います。


しかしここで、では何をしてもいい、ということではないので、訴える側の人間にも責任が生じます。それが次です。

②決してヒトを変えようとしないこと


何かを訴えるときに、それは個人を変えるものでない方がいいと思います。どういうことかというと、図書館で人を注意するときに、

✖その人間を黙らせる
○図書館で騒ぐことに不快だという感情を伝える

というようなイメージでしょうか。これはあくまで身近な例なので、ちょっとおかしな話ですが。


でも例えば「いじめをなくしたい」という意思を持った時、ひとりのいじめっ子を叱るより、いじめが起こってしまう空気を見つめなおすほうが主張としてまともじゃないでしょうか。


いじめをなくすことは「絶対的な正義」ではないのです。あなたがたまたま「いじめをなくしたい」と思っているだけなのです。


実はここについて、「言葉に対しての考え方」という事でさらに内容があるので、それは次の記事にでも書こうと思います。


まだ自分でもうまく言えないんですが、つまり、主張と権力をはき違えない努力をするという事です。


絶対的な正義が存在するなら、それは何があっても他人に押し付ければいいでしょう。だって絶対的な正義なんだから、さぞかし万人を幸せにするんでしょう。しかしそうではないと僕は思います。


だったら「ヒトを変える」のではなく「空気を変える」主張にしたほうがまともな気がします。「赤信号もみんなで渡れば怖くない」な生き物ですから、いいことも悪いこともマジョリティで決まっちゃうわけで、ひとりの人間変えたところでマジョリティにはなりません。同じ志を持つものと手を取り合って空気を変えるほうが素敵だなーと思います。




おわり。