他者への殺意が己を貫く

最近、暗いニュースが増えすぎでは…と思います。わかりません、自分が暗いニュースばっか見ているのかもしれません。


自粛ムードでいろんな人に鬱憤が溜まってるんでしょう。歌手が国に対する意見を発信しようものならすぐに荒れ、自殺に追い込むまでの中傷のツイートまで現れ、とりあえず自分はTwitterを見るのはやめました。


誹謗中傷って本当に悪なんでしょうか。


いろんな意見が流れています。

「誹謗中傷ではなく批判にすべき」
「中傷するなら強い人間にしろ」
「名誉棄損は見逃さずすぐ訴えろ」

各々の意見は誰も不幸にすることのない素晴らしい意見です。


ただ、なんというか、根本的な解決になっている気がしません。こんなこと書いたら叩かれそうなんですけど、誹謗中傷を悪だと決めつける人の気持ちがよく分かりません。


まず、第一に、誹謗中傷と批判の間に境目なんか引けるわけがありません。相手の社会的地位を下げることが名誉棄損だというのなら、ドラマの俳優に「演技が下手だ」とコメントを残すことは名誉棄損になってしまわないんでしょうか?


これは批判でこれは誹謗中傷、なんて便利に誰もが納得できるように分けてくれる装置なんて存在しません。批判のつもりで言ったことが相手にとっては誹謗中傷のように聞こえたってなるからトラブルになるんです。そこが言葉の怖さであり、逆に言えば、そこが言葉の面白さであり醍醐味だと思っています。


もし僕が安部さんであれば確実につぶれていてもうこの世にはいないと思います。2月からはほとんど休まずに対応に追われ、twitterでは「こいつに国は滅ぼされる」の文字。


今までに存在したことがないウイルスが来ちゃったんです。失敗なく過ごせることの方が少なくて当然です。なぜそんなに攻撃してしまうのでしょうか。


相手に能力が足りないと思うのなら、その能力をあなたが足してあげればいいじゃないですか。でも別に、「じゃあお前が代わりにやれないなら批判するな」とは思っていなくて、専門性が違う分野に要求を提示するのはかまわないけど、貴方にできないことを他人に要求するのだからそこには感謝が付随して当然と思うのですが…。


コロナウイルスの関係で初めて出した死者は職員の自殺でした。cyber bulling により亡くなられた方もいます。その攻撃を企図した人間には怒りが湧きます。



ただ僕の中では、そうした怒りが外に向くだけのものでは、絶対にないと思います。



僕は小学生の時、成績は同級生に負けたことが一度もなく、ひたすらに周りの同級生を見下していました。気に入らない先生には食って掛かりました。

中学生の時には嫌いだった同級生にひどい言葉を投げかけたこともあります。

高校生の時には、執拗なメールに悩んでいた友人に「気にするだけ無駄だ」と言いました。



木村花さんに中傷のツイートを送った人間も、僕の友人に執拗にメールを送っていた奴も、問答無用で牢屋にぶち込みたいです。


でも、彼らを裁くという事は、同時に、未熟だった過去の自分も裁くという事と、いっさい変わりません。彼らを牢屋にぶち込むのであれば、小学生の生意気な僕も、プライドが邪魔して人の上に立っていたかった中学生の僕も、ヒトの悩みを適当にあしらった高校生の僕も、牢屋にぶち込んだっていいかもしれない。


ではなぜ自分は裁かれていないかと言えば、それは自分を許し是正してくれた手が存在したからです。過去に自分が攻撃したものが、生きていてくれたからです。怒ってくれたからです。


もしあの頃の僕が牢屋にぶち込まれるなら、今の僕は当然存在しません。だから今僕が憎んでいる相手を牢屋にぶち込むなら、それは今の僕の存在を消すのに、実は等しい。


誹謗中傷は悪だと声を大にする人たちへの違和感はここにあります。


自分は誹謗中傷をしていないと思い込み、さらっと批判と誹謗中傷に線が引けてしまう人が、ネットで殺意を向ける人と同じくらいに僕は怖いです。


今までの誹謗中傷は履歴取ってますから覚悟しろよみたいな動きも、悪人への抑制力としては間違ったこととは思いませんが、しかしそれは核爆弾をいっぱい持ってることで攻撃を免れようとするような国家に似ています。核爆弾は増え過ぎればそのうち地球を破壊します。


どんなに汚い言葉でも愛のある言葉はあって、どんなに綺麗でも意図的慇懃無礼という言葉があるように、失礼な態度も取れる。僕達はそうした爆弾を過去に数々投げてきてたんです、そしてその爆弾が爆発してきたことで、その爆弾の危うさに気付き反省してきたことで成長してきたんです。




やっぱりヒトは、高台に登って見下ろしながら物を言っている方が楽だ。でも僕はネガティブだから高台に登る気があまりしなくて、ただ低いところで、俺も罪人だごめんなさいってペコペコしているような、そんな人間です。



他責は自責であり、自責は他責なんだと思います。



くくった瞬間に終わりです。自分はこの立場にいる、あいつはこの立場にいる、この現象は○○だ、決めつけた瞬間にその言葉はその範疇を出ません。



みんなが右に行くなら右に行く。左に行くなら左に行く。そうした時に、右の時は右を疑い、左の時は左を疑うという所作のみが我々には必要じゃないかなと。



今は、外の罪人を裁く期間ではないと思います。自分の中を罪人を省みて、自分の中の罪人を消そうと努力してくれた今までの周りの環境に感謝する期間だと思います。


この件に関しては、僕は他人を語ることで強くなれません。





おわり