「道徳」と「医学」のディレンマ ~個人間勾配はどう埋められるのか~

今日一日は、本当に、何もせずに過ごす日にしました。こんなにボーっとして過ごす日は最近あまりにもなかったので、少し焦りも感じながら程よくリラックスできています。


最近明らかに体調不良が続いていたので(めまいやたちくらみなど)、昨日、精神科にかかりました。特にそれと言って大きな疾患が見つかったりはしていないので、大丈夫です。が、ストレス緩和の抗うつ薬と漢方剤だけしっかりともらいました。


精神科医の方と話したのはこれで二回目です。最初は以下の記事に書いているのですが、こっちは今回のように明らかに体に不具合が出たわけではなく、ただの自分の不安から訪れたものです。その時の感情は下に書いています。もし興味があったら読んでみてください。


www.mattsun.work


で、今回は、色々と体調がすぐれなかったので精神科にかかり、精神科医の方にも色々話を聞いてもらったのですが、自分の今の背景などとも照らし合わせて、


「その勉強はすぐにでもやめた方がいい」


ということを強く言われました。

先に、僕がつぶれる。

精神科の方がどんな基準で人を見ているのかなんてことは僕には知り得ません。ただ今回話を聞いてくださった方も、かなり親身に話を聞いてくださいました。



きっぱりと言われました。

あまり君には向いてない

と。



感受性が強い。だから、人から聞いた話が重くてしんどいならそうであるほど、あなたも一緒につぶれてしまう、と。



記憶のシステムは人それぞれです。

①嫌な出来事がしっかりと残ってしまう人

もいれば、

②スーッと消すことができる人間

もいる。僕は明らかに前者で、重い出来事を対処する仕事は確実に後者に向いています。

以下の文では、①や②と略記を用いますが、自分自身、人をカテゴライズする表現は好きではありません。ただ分かりやすく説明するために用いた表現であり、世の中の人間はこの二パターンに分けられるみたいなことを思っているわけでは断じてないことをご了承ください。

ただ、何かここで大きな矛盾を感じてしまいました。


自分がある苦しみを抱えた際に、その苦しみを最も素直に話すことができるのは、同じ苦しみを抱えた人間のはずです。


こうしたシステムはあまり、上に書いたタスクの向き不向きに適合しません。というのも、


痛みが分かる人(というよりかは、いい意味で痛みを引きずることができる人)の方が、「安心感を与える」というベクトルでは重い出来事を対処するのに向いている


ためです。


切り替えが早くあらゆる仕事をはっきりとこなせる人を、僕は本当に尊敬します。しかしただ、こういう人たちにでさえ、何かしらの患者さんと対峙した際に、「診察するものとされるもの」の勾配ができてしまうというデメリットが存在しているように感じました。勾配とは即ち、温度差であり、心の高低差です。このような勾配を取り除くことができるのは、感受性が強い人間の方が得意とするものではないでしょうか?

人の間に自然と生まれた”勾配”


なぜこうした勾配が生まれるのでしょうか。


一つ目に、立場です。


医学的知識を持たない一般人が、体に不具合が出たもののそれの対処に見合うだけの知識を持ち合わせていないからという理由で、金銭を払う代わりに医学的知識を求める行為が、「病院にかかる」ということです。


ですから当然、病院内においては医師の方が立場は上です。医師が即ち「与える者」です。この勾配は、実際は「金銭を払う」という行為により均衡になだらかにされているものですが、しかし産物を求めているのは明らかに患者側であり、この勾配はあまり心の中において崩れるものではありません。


しかしこれはあまりに当然の現象を説明しただけで、今回の話と結びつくものではありません。


大事だと思う勾配の二つ目の原因、それは、当人の信念にあります。


少し話を戻し、「勾配」をどのように定義したか、に立ち戻りましょう。例えばあなたは自分の苦しみ、そしてそれによる様々な症状を理解して欲しいという意図で、ある人のもとを訪れたとしましょう。しかしその人は、あなたの話を聞くというよりかは、パパっと診断をしただ適応した薬を出すだけでした。あなたは違和感を感じます。ああなんか違ったなあと。これを勾配と呼びました。ここではつまり、①と②のタイプの人間が出会ってしまったわけです。


ではなぜここでこの勾配が生まれたかと言えば、


各人の重きを置く箇所が違ったため


です。


①の人間は、

ひとりを深く知り、知られること

を好みます。②の人間は、

多数を助けること、最大幸福

を好みます。


上の例でいえば、理解して欲しかったのに!なんて患者側が文句を言うのであればそれこそ傲慢な行為です。価値観の違いに優劣はありません。最も多くの人間を助けることに重きを置くのであれば、薬だけ出して早く次の患者を診たいであろうし、もし入院患者の病気が治ったのであればとっとと退院してもらい次の患者を受け入れたいはずです。


だからはっきり言って、「医学」のみに観点を当てるのであれば、僕みたいに、大して脳に異常があるわけでもないのに「ちょっと辛いことに耐え切れません~」なんて言って病院にやってくる存在は医学からしたら邪魔なわけです。


いろんな医者がいます。しかしそのタイプに一切の優劣はなく(やる気もなければ診断もあいまいなどのケースを除いて)、勾配が生まれるのも、本当に仕方がないことなのです。勾配がある程度そろっている人間をあらかじめしっかり選ぶか、誰ともかかわらないかの二択しかありません。極論、勾配がある以上自分を救えるのはやはり自分一人かもしれません。

道徳と医学のシーソー


こうした勾配はなるべく取り除きたいと考えるのが自分の立場です。ただそのためには、まず、自分自身の中の勾配を内省することからも始めないといけないとも思いました。


そこで重要になってくる問いは、


自分はしたいことをしているのか?
したくないことを無理やりにしているのか?


というものです。僕は自らの勉強したい分野に身を投じるために、学部を変えて一から勉強し始めました。元の学部にいたころと比べれば勉強時間は何倍にもなり、成績GPAはなんと3倍にもなりました。ただやはり内容が内容だけにそうなのか、辛い瞬間も間違いなくありました。そして、その辛い瞬間のほとんどは、仕方のないものととらえほとんど誰にも言わずに一人で消化しました。


問題はこの消化にあったのでしょう。


今回のように体に不具合が出ているというのが一番のサインです。しんどいからやめてくれと、体が言っているのです。


医学だけ考えれば、即ち一切の道徳を無視して自分の体だけに気を遣うのなら、あの時に戻って転学部届を取り下げ、「いやマジで向いてないわ~」なんて言いながら建築学科で模型を作っていればよかったのです。


でもなぜかそれでは満たされませんでした。時々ふっと湧いてくる悲しみに自己否定を繰り返すような人生ならば、そこにとことん向き合う生き方をすることが、自分にとっての”道徳”でした。


決して贖罪などの気持ちで動いているわけではありません。勉強はやはり何よりも一番に楽しいし、転学部から今までの道のりを後悔したことは一度もありません。


これが、僕自身の勾配です。医学の方に傾いていた勾配が、時を経てどんどんと道徳の方が高い勾配になってきたのです。


人生、平らに生きれるか

これらをふまえて、こうした勾配を除く手段として今から自分が行動できることは以下の2つです。


①自分の中の勾配を取り除く。即ち、自らの体を破壊するわけでもなく、自分のしたいことからの逃亡を正当化するわけでもなく、両面からのサポートを自分に対して行うこと(自分に足りてないのは明らかに前者です)。


②他者との勾配を受け入れること。話を聞いてもらう際に生まれる勾配は相手依存なので仕方のないものが多いが、しかし自分が話を聞く立場なのであれば、自分が与え相手が与えられているという構造をなるべく取り壊すことはできるのではないか?


などでしょうか。特に②の後半は大事だなと思っていて、例えば病院なら医者、相談室ならカウンセラーというように、予め「救うものと救われるもの」の対立構図としてみるのではなく、自分が話を聞く立場でも「あなたと話ができたことで知見を得られ救われました、ありがとう」くらいの気持ちでいきたいものです。



今回のこの記事を書いたことで、書く前よりもはるかに気持ちはすっきりしました。やはりブログという媒体は自分に向いているのでしょう。ブログに出会えたことはかなり自分にとっても財産ですね。


twitterでは少し弱音も吐き見る人を心配にさせているかもしれませんが、大丈夫です。まだまだ、自分にできることをこなすのみです。




おわり。