下がる「うつ」のハードルと、自己の虚脱

久しぶりに、ブログを書くことにしました。


何で書いたのかというと、抑うつ気分というものについて、ある程度の考えをアウトプットしておきたいと考えたからです。


こういった気分は、抱えてずっと持っているよりも、抱えてしまったその時に、何か書面ににでも形として残した方がすっきりするのかなと思い書いています。


今回の記事はおそらく自分の気持ちを吐き出したいだけの記事になり、自分の記述はすべて医学的根拠などに基づくものではないので、すべてが正しいものではない可能性が高いこと、ある境遇の方にとって不適切な発言となるかもしれませんが、お許しください。

自分の鬱は風邪か?


まず、僕は自分の鬱的な心理状況を他人に対してうまく説明することができません。もしその時の抑うつ気分を理路整然としっかり喋れるのなら、もうそれは抑うつ気分じゃないのではという気がしなくもありませんが、しかしそこまではきはきと喋れずとも、ゆっくりですら自分は伝えることができません。


伝えることができないというよりかは、覚えていないという方が正しいかもしれません。そういった気分の際にはもう本当に周りのことが見えなくなって、自分の半径1メートルより外には気が向かないような、そんな世界を生きているような気分になります。本当に夢中になれる楽しいことは一瞬で時間が過ぎるのを感じると思うのですが、その逆のことが起きていて、何も考えられない日はまた一瞬で時が過ぎるのです。いい意味でも悪い意味でも。


今まででこの気分を一番に感じたのは、京都の自死遺族の会に参加する前の時でした。


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軽く読み返すだけでも、あの時の気分が蘇ってきて辛くなります。抑うつ気分は一週間ほど続き、その期間は何をする気も起きませんでした。大学の授業を除いてはずっと家にいたと思います。


そしてこの気分の後の、ある程度の回復が済んだとき、なぜこんな負の感情は自分に定期的にやってくるのか、そうしたことを考えたとき、一つの仮説が自分の中に思い浮かびました。それは、


季節の変わり目の風邪に似ているだろうか


ということです。9月下旬くらいになったら、突然寒くなってきて、半袖で過ごしていたら風邪をひいてしまう、あの感じです。何か新しい環境に身を投じる際に、しかし自分の心はまだ半袖であるためにその環境に全く適応できないのです。長袖を着ればいいという処理をするまでに本当に長い時間がかかってしまう。その長い時間こそが、僕の脳がふっとフリーズする瞬間、周りが見えなくなる瞬間そのものではないだろうか、と。


自分の目指すものがふと途方のないものに感じた際、何かわけもわからず涙が出てくる夜がありました。自分の周りの人間がバタバタ銃殺されていき、自分だけが生き残る夢を見ては汗びっしょりで起きる日もありました。心が風邪をひくと何もかもがダメになっていきました。そういう時には決まって誰とも会いたくありませんでした。


誰かがこの自分の感情を理解してくれることはないと分かっていたので、完全に徹底してほっといてほしかったのです。こんな暗い人間が皆さんの周りにいても深いでしょうから、完全にLose Loseの関係だったでしょう。自分のこんな状態の前で誰かの楽しそうな姿なんて見たくありませんでした。傲慢な人間にはなりたくなかったので、他人の行動を制御したいなどと思ったことはありませんが、ただ楽しそうにワイワイやるなら僕の見えないどこかでやってくれと、心から思っていました。この時点ですでに傲慢な気もしますが。

鬱のハードルを、自分で下げる


そんな風にして、自分を周りとは相容れない存在であるという見立てを行うことが、自分にとっての一番の薬であったのです。自分を理解して欲しいような気もしながら、しかし理解された瞬間に自分はアイデンティティを失うような気もしました。そのために一番に必要だったもの、それが


自分へのラベリング


です。僕は自分自身に、他とは相容れない感情を抱えていると、そう思い込むことでしか自分のアイデンティティを確立できませんでした。僕にとって他人を排除するとはそういう事です。自分の個性を個性たらしめるために徹底的に孤独になることです。交わることでは僕は救われず、だから、世界に自分一人だけが抱える感情に対しての病名を欲しました。そんなものがあれば、一時的には幾分か楽になったでしょう。お前は特別だよ、周りのそこらの人とは違うんだよと、その病名が語ってくれるからです。しかしそんなものは当然ありません。


だからその病名の簡易バージョンとして、抑うつ気分を感じたときに、自分は自分に対し「鬱が来た」という思い込みをするようになりました。「鬱」がそうさせたという事にしてしまえばある程度は楽になるからです。


この時、自分は自分に対し「鬱」というラベリングをしていることになります。



でも、うつ病じゃない(かもしれない)。



自分を含めて、うつのハードルというものが著しく下がってきているような気がします。ちょっと萎えるようなことがあれば「まじ鬱だわー」というように、うつという言葉はちょっとの萎えの代名詞として社会に散布されています。でも、そんなものは、当然、医師から見たら鬱ではないわけです。「まじ鬱だわー」なんてニコニコ言えている時点で鬱病ではないのです。


社会に散布されればされるほど、当然言葉の価値も相対的に下落します。医師が見たら一目瞭然で分かるのでしょうが、僕ら一般人には、どこからが病気とされるのかその境界は全くと言っていいほど不明瞭です。不明瞭だからこそ言葉が散布されるのでしょう。


散布されるものに対して自分は興味はありません。やっぱり自分は孤独に生きたく孤独に死にたいのだな、と、強く思いました。自分でも救えない自分を、誰かが救えるなんてこともないような気がします。


ここまで書いて見返しましたが、やはりかなり支離滅裂です。自分の抑うつ気分は正確に伝えることが不可能でかつ、複雑です。誰にもこの考えを押し付けたくありませんが、しかし否定してくる人間とはなにがあっても距離を置きますし、こうした際に自分は愉快な景色を一切視界に入れたくなく、孤独な自分とその孤独な自分を支えられる唯一の自分の挑戦に、ただ酔っていたいのです。



おわり。