マイノリティをマイノリティと表現することは差別に値するのか?

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世間で一般にマイノリティとされている事柄が、たくさんあります。例えばLGBTに始まり、あとは心因の病気や、自分が現在研究している自死のことにおいてだって、よほどのことがない限り触れる機会もないという観点からしたら「マイノリティ」と呼んでもいいかもしれません。


こうした人たちと、あなたが不意に接することになったとしましょう。あなたは、きっと、心の中で


「気を遣わないといけない」


という感情をそっと抱くのではないのでしょうか。ちょっとした発言でその人に不快な思いを与えてしまうかもしれないと。そうした思いは、それ自体で差別となるのでしょうか?


つまり、マイノリティと思われている人たちに対し、「通常とは違いあらかじめ何かしらの特別な配慮が必要である」という態度で接することは、それ自体にどのような意味があり、相手を苦しめるものとなるのでしょうか?


この答えについては、存在しないと思っています。結局のところ考え詰めたところで「人それぞれ」という答えに落ち着くのが関の山です。そこに関しては、例えば前回のこの記事においてもこのように触れました。

www.mattsun.work

「自分の立ち位置というものは、関係性により初めて決まる」と書きました。何を言われたかでどのように傷つくかは人それぞれと言ってしまえばおしまいであるが、しかし関係性があやふやなままな発言が本人の意思とは別の意味で捉えられてしまうことは往々にしてあり、それは聞き手の人数通りの「過去」があるために仕方のないことです。そうした、「本人の意思や言葉がその意味を決めるのではなく、当事者同士の関係性(すなわちその『場』)が意味を決めるという一面を知っておくこと」の重要性を語りました。


問題は、そのもっと根本的なところです。


「配慮して接しよう」と感じた、その根本的な思考についてです。


なぜ「配慮しよう」と感じてしまうのでしょうか??


この感情について、この記事でいろいろと考えてみます。

配慮とは即ち、「刷り込み」か?


僕がこの題を考えるうえで、ある方の記事を参考にさせていただきました。

kindle-asd.hatenablog.com


アスペルガー大学生」さんという方のこの記事です。この記事の題ともほぼ同じ題の記事です。


この記事で本質的な情報だと思ったのは以下の二点です。


①ハイコンテクスト社会とローコンテクスト社会について。

多様な文化が存在し、前提となる考えが異なるケースの多い欧米諸国は言語能力、論理的説明力を重視する「ローコンテクスト文化」なのに対して、 前提となる考え(言語・共通の知識・価値観)が異なることが少ない日本は説明力よりも意図を察しあう能力、情報のスキャン能力が相対的に重要視されている「ハイコンテクスト文化」であると言われています。

(当記事より引用させていただきました)


②配慮の正体は、不の歴史に対するタブー視である

肌が黒いのは事実なのに言ってはいけない、タブー視されるのは先ほど述べたように負の歴史があるからに他なりません。

(当記事より引用させていただきました)



これらのことより疑問に感じたのは、以下のようなことです。


たとえば左利きの人間に対して「うわ少数派の人だ配慮しなきゃ」とはならないが、LGBTと接する際に「発言に配慮をせねば」となることは大いに考えられる、ということです。


上に書いたことを用いて説明するなら、そう感じた人間が、LGBTという性質をタブー視しているということが言えます。代わりに左利きに対してはそれがないのでしょう。左利きにも「ぎっちょ」という差別用語が存在するという考えがあることは承知ですが、しかしこれがタブー視されることは、前者に比べると現在の環境では少ないと思っています。


そしてこのタブー視は、どこで人間の体に染みついたのでしょうか?


左利きに対してのタブー視はなぜ発生しないのでしょうか?


そのカギは、僕は「刷り込み」にあると思うのです。

ハイイロガンの刷り込み


「ハイイロガンの刷り込み」という有名な実験があります。ローレンツによって行われた実験で、ハイイロガンの雛に、生まれた直後に動くおもちゃなどを見せたときにそれを親と信じ込み後を追う現象が発生し、本物の親には見向きもしなくなります。つまりこの雛は、


「自分と似た性質の動物であるか」

などを親と判断する基準としているのではなく

「生まれて初めて見た動くもの」


を親と認識しているということが言えるのです。そしてこの習性は非可塑性(いったんそう思い込めば元に戻らない)があることも言われています。


人間にもこのような「刷り込み」が発生しているのではないか?


と思ったのです。(生物学的に、「ヒト」に刷り込みはないと言われています)


歴史の教科書で「アパルトヘイト」という黒人差別が行われているという事実を教えられ、そしてこうした黒人に対しての知識を得たのがそれが初めてだったとしましょう。それが「刷り込み」として当人に機能してしまうのではないでしょうか?


その瞬間に、そんな黒人が虐げられてきた歴史があったのかと、それを知ったときに黒人に対する「タブー視」の視点が人間に刷り込まれてしまっているのではないでしょうか?ということです。


厳密には刷り込みとは少し異なります。後で新しい事実を知ったときに考えが変わるなどは考えられることであり、上でいう非可塑性はないからですね。しかしここで刷り込まれた「タブー視」の視点は、一度固定観念として取り込まれてしまった後で取り除くのはとても難しいことだと思います。


これらが、「配慮」としてマイノリティに貼り付く視点の原理だと今の自分は考えています。

刷り込みは歴史の科学でもある


ただこれはどうしてもしょうがないことでもあります。固定観念を取り除こうと思ったとしたときに行われることとして


「じゃあアパルトヘイトという事実を一生知らなければいい」


という結論を出してしまうとしましょう。確かにその事実を知らなければ、黒人に対するタブー視の視点は発生しないでしょう。しかしこれはあまりに本末転倒です。歴史を知らなければやはり知性は豊かになりません。


なので、タブー視の視点が発生してしまうことはしょうがないという事実は押さえておくべきです。これはどうしようもありません。タブー視の視点を与えてしまいそうな事実としては


アパルトヘイトという隔離政策が行われ黒人は苦しんできた

LGBTの人の中で自殺を企図したことのある人間は6割にものぼる

発達障害と思われる生徒の進度の調整によりクラスの勉強が遅れている


などがあげられるでしょうか。そうした事実を取り込んだ際に、脳が「マイノリティとしての性質が一般の軌範からの逸脱」としての性質(タブー視)を捉えてしまうのです。これが固定観念というものに形をかえ、これについて考え直さない限りは一生その人間にこびりつきます。


こうした一般的なものでなかったとしても、


左手で箸を持っているのはおかしいといじめられてきた子

スポーツの際にレフティーは強いとして周りから羨ましがられてきた子


この二者では、左利きへの視点がもう180度違うのです。この二者の過去は、大事な大事な当人の歴史です。しかし誰のどのような過去を学ぶのか、歴史の種類によって特性への配慮は全く違うことになるという事を知っておくべきです。


歴史を学ぶというのは諸刃の剣であると感じたんです。

ヒトとして刷り込みを放置するな


一か月ほど前のことなのですが、僕が大学のゼミの同期と「マイノリティとは」ということで話していた時にその同期が言っていたことが、今も強く印象に残っています。



「闘えるマイノリティと理解あるマジョリティが増えられるかどうかにかかっている」



この言葉は自分の胸にかなり強く刺さりました。


例えば「左利き用のはさみ」は、「左利きでも使えるはさみが欲しい」という左利きの声と、「右利きが多いというだけで左利きの特性を無視したらいけない」という右利きの声が重なって初めて生まれるものです。「はさみくらい右手で我慢しろ」という風潮に、左利きが声を上げるのを恐れても、右利きがめんどくさがっても、「左利きのはさみ」は実現しないものなのです。


多くの場合において、「理解ないマジョリティ」というのは、この刷り込みを真だとして疑わずに放置している人間です。


不登校は親が甘やかすから生まれるものである、根性なしに育て上げたせいだ


という意見にどう感じるでしょうか。このような声を聴いただけで、この発言者は「ああ、刷り込みを放置してきた人間なんだな」と一発で分かります。不登校は常識からの逸脱として捉え、そしてそのことを疑ってこなかったのだろうな、と。なんとも貧しいですね。


不登校などの現実を知ったときに、常識からの逸脱としての一面を知ってしまう、そして不登校というものになんとなく「タブー視」の視点を持ってしまうこと、ここまでは仕方のないことかもしれません。それを否定するのはあまりに現実的ではありませんから。現に、どんな担任の先生だって、学校に来ている生徒と不登校の生徒だったら後者と接する方が緊張するでしょう。その緊張自体がもうすでに差別だ!なんて意見は現実的ではないのです。


大事なのはその後です。歴史を学んだうえで刷り込まれてしまった「タブー視」の視点を一度考え直さないといけないのです。


不登校と生徒の根性のなさがすべて結びついているわけではないなんて、理性があればちょっと考えればわかるはずです。しかし一度刷り込まれた視点を真として疑わないことが、心無い声につながります。


全ての刷り込みに対し一度、疑う姿勢を持ってください。


ひとりひとりが「理解あるマジョリティ」になることが、風潮を変える第一歩なのです。


ですから、題に答えるならば、マイノリティをマイノリティと表現すること自体は差別ではないと考えています。しかしその表現が諸刃の剣となることは知っておくべきであるし、その表現が「刷り込みを放置したもの」とならないように気を遣うことは必須なわけです。




おわり。