理想論は、人を苦しめるのか?


今回の記事は、僕が心理学を勉強し始めるうえで最も影響を受けたといってもいい一冊である、『嫌われる勇気』に関しての話をしたいと思います。


この本は、心理学の勉強をするための本というよりかは、自己啓発本の種に属し、明日からの暮らし方を見つめなおすといった側面の強い本です。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え



今回この本に関し自分が考えたいと思っている論点は、


理想論は人を苦しめるのか?


という点です。



というのも、この『嫌われる勇気』という本に書かれているのは、アドラー心理学という種類の心理学の内容を概説したものであり、間違いなく実践できれば幸せになれることではあるものの、しかし実践するにはさまざまな障壁が存在するものでもあります。本の中でも、この考え方を完全に体現するには今までの人生の時間の二倍の時間がかかるということが述べられています。


即ち、ある程度は「そんなの理想論だろ」という意見が存在してもおかしくない内容ともなっているのです。


どんな内容が理想論と言われるゆえんなのか、そしてそうした理想論との向き合い方というものを、今回この記事で書き残そうと思いました。

『嫌われる勇気』は、○○を無視している


例えば、『嫌われる勇気』には、次のような話が存在します。


もう何回も登場しているのでくどく思われるかもしれませんが、

Aという出来事があったからBと感じている

のではなく、

Bと感じていることを正当化するためにAという出来事を持ち出している

という考え方です。AとBは繋がっているのは間違いないにしても、必ず「AだからB」と捉えるのはもったいないという意見ですね。


例えば、自分がやる気が低下したのを、先生が怒ったからである、という風に先生のせいにすりかえることで、自分は悪くないと言うことを正当化しているということです。先生に怒られようとも、課題を見つめ直して努力する人間はいるわけで、そもそも先生が怒ったかどうかなんてことはあなたの価値に直結していません。他者を理由に生きることで他者を規範にしてあなたは生きることとなり、そんなことなら、それは他者の課題であると割り切って自分の課題に集中すべきである、ということが書かれています。


ここで発生した、「他者の課題と自己の課題の分離」というワードも、やはり自分には理想論の強い一面があると思っています。


上に出したような例であるならば、先生が怒ったのにはそれなりの理由があるわけです。先生が威厳を表出するためだけに怒っているのであればそれはもう先生の課題だとして割り切り分離ができるかもしれませんが、しかし先生は本心からの期待を込めて生徒を叱っているかもしれません。これは先生がどんな思いを抱えているのかを正確にくみ取る必要がありますし、しかしくみ取った先生の意志が必ず正しいものであるとも言えません。


ここまで自分で考えたときに一番感じたのは、


こうしたことを考えている時点で自分も人目を気にしている


ということでした。先生はどう思っているんだろうと思いを巡らせているからです。自己の課題に集中しろという本著の主張からすでに逸れています。でも人目が気になるのは人間である以上仕方がないことであることも、誰もが分かっていることです。それを完全に無視してしまうのはもう修行の域であり、そこに幸せがあるのかなんて誰にもわかりません。結局、当然湧いてくるであろう生来的な条件反応を無視してしまっています。


以上が、『嫌われる勇気』に理想論が含まれていると感じた理由です。


そして、理想論とは、悪く言えば綺麗事です。


綺麗事は、敬遠される風潮にあるように感じます。偽善者なんて言葉も存在しますよね。しかし僕はこの理想論に、ほかには語れない何よりも大事な一面があると思っています。


僕にとっての理想論


僕は、一概に言われる「勉強」に対して、一つの大きな軸があります。



勉強とは本来、本質的に知りたいことを知るという生きるためのツールであり、試験による競争のためにも出世のためにも使われるものではなく、いわば人に順位をつけるようなものではない



というものです。


受験による競争は自分は実は大いに賛成です。矛盾しているではないかと思われるかもしれないのですが、自分では別に矛盾ではないと思っています。あくまで勉強の本質的な意味とは何かを問うているだけであり、例えばそれに従って共に学ぼうとする団体が生まれれば学校も生まれるし、どのような人間とともに勉強したいのかがはっきりとするならそれを基にした選考が生まれるのは仕方がないからです。


危惧すべきは、勉強の本質を見失ってしまうことで他人を蹴落とすためのツールとして勉強が用いられてしまうことです。


だから僕はずっと「縦に登るのではなく横に広がるための勉強」という信念をずっと曲げずに生きていくつもりですが、しかしこれも、理想論です。皆が自分にだけできることを、と言ったって、社会の仕組みはほとんどが椅子取りゲームだし、そこに目を奪われがちなのは仕方ないことです。



でも僕が大事だと思うのは、本質となる理想論を自分が理解できているのかという点にあります。


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僕はこの記事で、理想論を語ってしまうだけなら意味がない、陳腐であるという話をしました。しかしこれは正確には言葉足らずで、理想論に足りないものや現状の改善点をはっきり自分なりに述べるのであれば全然かまわないと思っています。


そしてなぜここに僕が大事な一面があると思ったのかというと、理想を掲げることで



問いを作る力が試されている



と思うためです。


問いを作るか、答えをなぞるか?


皆さんにとって、自分の理想というものがどれほど存在しているでしょうか。それはわかりませんが、しかし理想をしっかり自分で掲げられる人間は、その理想に対し何が足りないかを考え、その解決には何が必要かという「問い」を立てることができます。


この問いを立てるという行動が、自分らしく生きるということです。


どうしてもまわりにアドバイスばかり求めてしまう人は、やはり選択肢として周りの人間の出す答えをなぞることになります。そこに自分らしい生き方は存在せず、自分らしく生きるなら、まず問いを立てるしかないのです。


そして、その問いが理想を基にした考察であればあるほど、その人の素質は輝きます。ここで大事なのは、


理想は叶う必要は一切ない


ということです。これは声を大にして僕が言いたいことでもあります。


だって例えば、全人類がアドラー心理学のような考えに至ることも、受験競争がなくなり全員が知りたいことを知ろうとすることも、100%あり得ないでしょう。理想というのはあなただけの理想であって、全人類の共通の理想などは存在しません。


だから基本的にみんなの理想は叶うことはありません。じゃあ何のために問いまで立てて必死に生きるのでしょうか?それは、今の僕にとってで言うならば


自分のことを大事にしてくれる人間を大事にするため


この一点に尽きます。


そう、誰かを応援し返すためです。それは身近な人かもしれないし、このブログを読んでくれた顔の見えない遠くの人かもしれません。


理想を批判してくる人間は、理想が叶うか叶わないかの二元論に立っています。そんなこと言ったってお前にはそんな大層なことできないだろう、と。しかしそう言ってくる人間とはすでにあなたが同じ次元に立っていないということが分かるでしょうか。あなたは理想が叶う必要ないとすでに分かっているからです。


理想が叶うか叶わないかではなく、誰かを応援するために理想を打ち立て、問いを作る。この流れが自分に軸として存在する限り、僕はこの先も生きる意味がぶれることはないと思います。


だから、やはり理想はどんどん口に出し掲げるべきです。そんなことが無理だとかそんなものは二の次でよいのです。


まわりの意見をなぞってきたどんな秀才も、理想を掲げる人間には勝てないと思います。






おわり。