悪を糾弾するために頼るものは「法」ではなく「制度」である

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サン・ジュストという、フランスの革命家がいます。そして、このような言葉があります。


「法ではなく、制度を作るべきである」


この言葉の意味するところが、はじめは全く分かりませんでした。そもそも、法と制度の違いが全く分かりませんでした。しかし、このサン・ジュストという人間の考えを追っていくうちに、自分の考えにとって大きな影響を与えるような示唆を得ました。


それは、自分の過去にも大きく影響があるものであり、それについての考えを書き残しておこうと思います。


どうしても法というものが胡散臭くてしょうがなかった、そんな自分の考えにある程度の理論と整合性が付け加えられたような感覚でした。

「法」と「制度」


世界史にも何も詳しくなく、時代背景等に一切の知識がないので、サン・ジュストに対しての説明は省かせてください。ただフランスの革命家であり、ルイ16世の処刑を主張したということしか知りません。


そんな彼(彼女かもしれません、すみません)の言葉を上に書きましたが、この言葉が非常に奥深いものだと自分は考えています。


彼が言うところの「法」とは、即ち

「制限」

です。人々が安全な暮らしを営めるように、こんなことはしちゃだめ、あんなこともしちゃだめよと、人々に制限を加えているということです。


それに対し、「制度」のことを、彼はこのように述べています。


法のような制限ではなく、むしろ反対に行動のモデルであり、真の企てであり、肯定的な手段によって考案されたシステムであり、間接的な手段による肯定的な考案である


これで、なんとなくイメージしやすくなるのではないでしょうか。


つまり、

「他人の所有物を盗むのは罰に値する」

と述べるものが法であり、

「みなが権利を大事にできるように、自分のものを自分で使うことを心がけよう」

と述べるものが制度ということになります。


サン・ジュストは同時にこのようにことも言っています。


専制は単一の権力のうちに見出されるのであって、制度が増えれば増えるほど独裁権力は衰えていく


なるほど納得です。誰か一人が思いのままに動かすような独裁権力には、「法」はあれど、「制度」はないのです。歯向かってくる民を減らすために、民に対する制限や禁止事項が当然「法」となり、民が自ら考えるような「制度」は当然、権力のボスからすれば鬱陶しいものになってしまうからです。


これらのことから何が言えるでしょうか。


僕は、「法」というものは、当然存在しないといけないものであることは間違いないが、しかし悪を裁き、努力した人間が報われるような仕組みではないということをずっと考えてきたのでした。


目に見えないものをどう裁くか


大して現状に対し豊富な知識があるわけでもないのに語るため、間違ったことや失礼な表現になることがありましたら申し訳ございません。


ぼくの考えたい題に関してはただこの一点、目に見えないものに対してどこに終着点を見出すのか、ということです。


例えば殺人犯が無残な殺人事件を起こしたが、しかし被告の精神状態がまともじゃなかったという見解により釈放されたとしましょう。99%の人間は、必ず少しは「なんてことだ」と思うことでしょう。そんなに無残に人を殺しておいて、死んだ者は返ってこないのに、そういう思いが現れるのは全く不思議なことではありません。


でもここに終着点を見出すのって、100%無理なことじゃないでしょうか?


上の例でいうならば、もし自分が遺族側であったとしたら、当然被告には相応の刑を求めるだろうと思うのですが、しかしもし逆にです。被告が長年、度を越して厳しい両親に抑えつけられ時には暴力も受け、そんな背景を知っている身近な人であれば、遺族側とはまた別の感情を抱くと思うのです。「殺人に関しては許されることではないが、しかし環境の調整という点からは被告もまた被害者かもしれない」などです。


ナイフで刺しただとか、僕のものが盗まれただとか、目に見えて明らかに見える現象であれば法で裁くことができます。しかしそれが起きるにあたって周りの人間にどのような背景があったのか、そうした目に見えない事象に関しては、司法は何も言うことができません。


当然、仕方のないことです。誰かがちょっとでも「僕は、彼はこんな思いでこんな事件を起こしたんだと思うな」とでも言ってしまえば、これは発言者の主観によってのみ成り立つ事実になるために公平性が一気に失われてしまうからです。


司法はAIで十分であるという意見を聞きましたが、このことには大方自分も賛成してしまいました。


公平性が失われるために、目に見えないものに関して誰もが納得できる判決のようなものが存在しない、そうだとしたら、裁判官は何を以てあの場所に立っているのでしょうか。裁判員制度も、ちょっと意見を聞く人数を増やしたところで何の意味があるんでしょうか。自分にはそう思えてなりませんでした。


結局、法に基づく判断というのは、


悪を裁くため


ではなく、


双方の納得できそうなおちどころを探すため


だと思ってしまいます。善悪なんて司法の場に一切関係ありません。関係ないというか、善悪なんて概念を司法に持ち込んだ瞬間に司法としての威厳は失墜すると思います。


こころの中では、「殺人はどう考えてもおかしくて、被害者には全くの非がないのに理不尽である」ということが分かっていても、しかし精神に異常があって云々と裁判官が下してしまうのであれば、それをただ指をくわえて見ているしかありません。「いやあまりに理不尽だ」なんて声を上げたところで何の意味もありません。


僕の友人も、裁判所においてこうしたことが認められることはありませんでした。どんなにおかしいと思えることがあろうとそうした意見は通用しません。辛い気持ちは司法の場においては救われるものではないというのを一番に感じました。


僕には制度を作れるのか


だから少し上でも述べたように、司法はAIでもいいのではないかという考えも、やはり生まれます。どんなに法律を詰め込み何もかも暗記し生き字引になったとて、結局その字引は、「双方の納得できそうなおちどころ」を探すためにしか使われません。


だったらそのへんのスーパーコンピューターに六法を全部吸い込ませて、事件を読み込ませた後に妥協点をいくつか提案してもらえばいいでしょう。そういったことなら人間よりもコンピュータのほうがはるかに分がいいです。


だから僕は、この先の日本において、「法」ではなく「制度」を作ろうとできる人間こそが活躍できる環境にあってほしいと思います。というか、おそらくそうなるのではないでしょうか。こんな僕のような青二才に日本の未来なんて1ミリも語れませんが、しかしコンピュータの進化などにより人間にしかできないことを求めることは必要だと思います。

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今年一発目のこの記事で、次のように書きました。

人間というのは、地球上で唯一、「意味の世界に生きている」生き物です。ほかの生物に、「これをしたのは〇〇だからかな」とか考えている生き物は(たぶん)いません。勝手に目的を作り、勝手に動機を作り、そんなことができるのは人間だけです。


この「意味の世界に生きる」ということは「制度を考えながら生きる」ことに直結するのではないか、と考えました。


例えば同じ医師にしても、診断と薬の処方を行うだけならコンピュータに代わることができ、制度としての世界に生きるのであれば、話を聞く時のその場の空気感の調整など、意味の世界に生きる人間にしかできないことがあります。そうしたことを考えられる人間こそがおそらく今後求められている人材なのではないかと考えていて、そうなるために自分も精進しないといけないと思っています。


そして今自分に課している課題は


グリーフケアは学問としてもっと普及させられるか


というものです。


生活をしていれば誰にも様々な傷が残るわけですが、それを「悲嘆(mourning)」と訳したのが、Bowlby(ボウルビィ)です。そしてその悲嘆から、愛する対象を亡くした喪失感を、どのように自分の中で受容させていくのか。その現実を受け入れる段階を、Freudフロイト)は「喪の作業(Grief Work)」と呼びました。


このグリーフケアというものは制度そのものだと思っています。自助グループというのも、制度そのものでしょう。


いろんなものが目まぐるしく変わってゆく時代に、安泰など存在しません。自分にとっての安泰とは、年収〇〇〇万などといったものではなく、「自分の変化を支えられる自分が存在していること」です。


この先だって何が起こるか分かりません。しかしそのことから人間は基本的に目をそらしていたい生き物です。いきなり震度7の防災訓練なんて言われてもやる気にならないでしょう。


全ての予期できぬハプニングに備えることは不可能ですから、自分の変化なんてものはその時にならないとわかりません。僕にとって、その自分の変化というものは、生きる意味を疑うような根本的なものであり、そうした体験があったことでグリーフケアを学び始めました。このグリーフに関しては人それぞれで構いませんが、そのグリーフとの向かい合いを学べる環境がもっとあってもいいのではないかと思っています。


そもそもグリーフケアなんてものは必要のない人がほとんどです。ケアの普及自体に意味があるとも思えません。しかし自分を支える自分のケアの方法を見つけられるような「制度」というものを、考えていきたいと思っています。




最後に、誤解を招かぬよう最後に付け加えると、自分の考えは、コンピュータにとってかわられる仕事を人間がやるべきではないというものではありません。ただ自分が、他にできない生き方をしたく、自分の大事な人たちにもそのような生き方をしてほしいという考えであるというだけであり、この考えに他者との相違があることもその相違に優劣がないことも理解しているつもりです。





おわり。