【1/11】京都・自死遺族の会 例会の記録

f:id:mattsun0383:20200112183739p:plain

今回は、12/19の記事に続き、京都の自死遺族の会に関しての記事を書きます。今回は、例会に参加しました。


京都の自死遺族の会、通称「こころのカフェ京都」に関しての説明は、以下の自分の過去を参考にしていただきたいです。


www.mattsun.work
www.mattsun.work


例会においては、上の記事の説明のところに書かせてもらっているとおりです。今回新たに付け加えることはありません。


愛の許容ということを感じたということも書かせてもらいましたが、今回もその通りです。


しかしなにか、自分の中にとてもモヤモヤしたものが残ったというか、色々考えるきっかけにもなりました。このことをこの記事でまとめておこうと思いました。


何か正体はわからないのですが、言いようもなく辛いです。

僕の罪

あけましておめでたく、ない。


僕は会場につき、代表の方にあった際に、


「あけましておめでとうございます」


と言ってしまいました。しかし、その方は初めの説明においても、このように仰いました。


「新年を迎えてめでたいのかどうか、何で生きているのか悩む中で」


この時に、自分はやらかしたと確信しました。喪中の方に年賀状を出してしまったような気持ちになりました。僕一人だけなぜか、気持ちが浮いているようでした。とても申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

悲しくないことが、一番に悲しい。


これは前回のフリースペースにおいてのことなのですが、僕は自己紹介の際に、自分の「過去に同級生を亡くしたこと」を踏まえ、そしてその体験をもとに、今所属する学部において、自死についての「研究をしています」と、発言してしまいました。


このことをあとで、


「研究というワードだと、やはり、被験者にされるのではないかという印象を与えるし、あなたは遺族ではないから」


ということを言われました。


またまた、やらかしたと感じました。この言葉がなぜか体を貫通するかと思うくらいに、刺さってしまいました。自分はここにいるべきではないと直感しました。


別に、興味本位で話を聞きに来たつもりではありませんでした。自分が過去に抱えてきた色々な感情、それを知るためにそして同じようなことを思う人が現れたときのために。どんなに外でいろんなことを考えたとしても結局それは机上論にしかならなくて、生身の人の話を聞くことは不可欠だと思っていました。みんなはどんな思いを抱えこの場に来ているのでしょうか。それを知ろうとした自分の背景は、そんな自分の事情など、周りの人たちにとっては当然一切関係がありません。


多分僕は過去に戻って、周りに十分に配慮をしろよと言い聞かせても、「あけましておめでとうございます」も、「研究しています」も、多分同じように言ってしまったと思います。


僕は現段階で、過去のことをある程度受けいられている状況にあると思っています。しかも僕は遺族ではありません。自分の悲しみの感情はその場では悲しみなんて言ってはいけないと思いました。


だから、いま悲しくないことが一番に悲しいと思いました。


僕は結局人の痛みがあまり分からない人間なのかもしれません。


少し考えたら「あけましておめでとうございます」は失礼かもしれないと気付いたかもしれません。しかし挨拶として普段当然にしていることのストッパーが自分には存在していませんでした。自分がとても愚かな人間に思えて仕方ありませんでした。


では、配慮とは一体何でしょうか?


「悲しみを抱えた人として、配慮して参加してください」


仮に配慮をして、「あけましておめでとうございます」を封じても、しかしそれであいさつがなってないと思われるかもしれません。


配慮とは万人のために存在するのでしょうか?

仮に僕が会話を極めたとして、万人を不快にさせない表現のみを使うことはできるのでしょうか?

それが不可能だとしたら、なぜそこまで誰かを不快にさせるリスクを負ってまで僕はこんなことをしているのでしょう?


こうしたことを考えた挙句、やはりこの世界線からは身を引くべきだと考えました。


自助グループに対し、どこか「他助」のような気持ちで臨んでしまっていたのかもしれません。そうだとしたらそれは僕の完全な驕りです。


この場では僕が僕としてふるまえないような、そんな不安も同時に覚えました。


何が何だかいろいろと分からなくなってしまいました。



この先について


僕のすべての出発点は自分が過去に体験した経験で、それについてこのブログも誕生しましたから、こうした世界線から身を引こうと思うのであれば当然このブログも消滅します。


でもしかし、すべてを忘れ去るとかそんなことでは当然ありません。


自分の感情はそれでいて当然大事だし、しかしその個人的な感情で回りを巻き込むのはやめようと思います。


言葉のことをいろいろと考えて、誰に張り付くとかラベリングとか、そんなことを言っておきながら、しかし一番に理解していないのは自分だったのでしょう。


おそらく自分がいままでにやってきたことでも、こうした記事の中でも、おそらく様々な人を不快にしたでしょう。その方たちに対し、今は申し訳ない気持ちでいっぱいです。結局なんやかんや人の屍を掘り起こしただけでした。


これから自分が何をするかは、また一歩踏みだそうと思えたときに考えます。


ただ、前回の記事で書いたこの気持ちだけは一切変わっていません。


だからこそ、人は理解ある集団を自分でもっと自由に選択すべきなのです。簡単すぎる説明と、感想に関しても、まとめれば「安心感あるよ」と大したことをかけていないのですが、しかしもっともっと、どんな人間にもそのパーソナリティに安心感を与えてもらえる環境が存在することを僕はただ訴え続けます。



おわり。