辛い気持ちは、論理的に話せないといけないのか? ~「聞く」人間が最も理解せねばいけないこと~


何か辛いことを経験した場合、そのことを周りに話す機会というのは、どれくらいあるでしょうか。普段の交友関係とかによっても変わってくるものだとは思うのですが、しかし外に向けて自分の気持ちを発信することが大事であるというのは間違いないことであろうと思います。そしてその自分の気持ちは、論理的に話せないといけないものなのでしょうか。


というのも、自分がある苦しさを抱えたときに、それは


辛いことを論理的に話し相手に伝えることができない


ということに起因したことが数多くあったんです。ピンとこない人がほとんどだと思うんですけど、例えば、自分が今までに一番つらかったと思ったことを思い出し、そのことに関して当時の周りの環境や自分の心理状況を考慮しながら書きまとめてみてください。初めから最後まで、一回も筆を止めずに書くことは不可能だと思います。人に話す場合も同じです。途中で、あれ自分は何を言っているの?とか、そういう気分になることがあり、そしてそれがまた苦しみになることがあります。


話せば話すほど自分の無知に気づくということです。


しかしそれでも人は、自分の思いを外に出すことでしか前に進めません。

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この記事内においても、考えることとは即ち何かしらのアウトプットであるという話をしました。インプットをためるだけでそれが外に向かって使われないのであれば意味がなくなってしまうというのが僕の考えです。


だとしたら、当然その誰かのアウトプットを受け取る人間がいることも間違いありません。それをこの記事内では「聞く人」と表現しますが、この「聞く」という行動において、誰もが忘れてはいけないことがあると自分は考えています。


自分の聞く態度というものを反省すると同時に、聞くという行動の本質的な意味を考えてみたいと思います。

人は言葉を”使えない”


自分の持論として話を進めるので、即ちこの記事で書くすべてのことは、一般論とはなり得ません。賛同が得られることもあれば批判的な意見が発生することもあるでしょう。そのことはご承知ください。


自分が聞く聞かれるという二者の関係を考える際に、出発点として参考にしたのはラカン(Lacan)の言語観です。まずはこれを簡単に説明させてください。


ジャック・ラカンは、フロイト精神分析の考えを発展(?)させた、フランスの哲学者です。精神分析を学ぶ中で必ず登場する人物なのですが、この人の言語観に関する記述が、自分の考えを説明するにも最も手っ取り早いです。


まず、大枠となる、大まかな説明は以下の通りです。

(1)言語は、話す場面ではなく聴く場面を考える。
(2)言語観の単位をあらかじめ独立して存在するものとして考えるのではなく、聴く主体の参与があって初めて成立する。
(3)我々は言語を「使う」と思っているが、正確には我々は言語の中に「いる」。言語は道具ではなく「場所」である。

参考文献…原和之(2019) 「言語と場所―シニフィアン連鎖・バベルの図書館・オイラー図」P105~106


(1)は、言葉を考える際には「聞く」主体を重視しようねという話です。書いてあるそのままの意味ですね。


(2)は、当たり前だろって思うかもしれません。言葉は聴かれて初めて意味を持つということを言っていますから。しかしこれはとても大事な視点であり、例えば「エクリ」パロールと言って、書き言葉と話し言葉が、聞く人間の解釈によってどのように誤解されうるのかという違いをもとに二項対立として対峙して考えられてきた時代がありました。この辺の話はまだあんまり詳しくはないうえに面白くもないと思うので飛ばします。つまり、


言葉は勝手に独り歩きしないよ


ってことです。聞く人間がイメージとして言葉をその当人に張り付けているだけということです。このことはこの先もう少し話せばわかりやすくなってくると思うので、少しだけ我慢していただきたいです。


そして(3)が、最も重要な核になります。言葉は道具ではないのです。つまり、敵と戦いに戦争にでかける際、言葉は、銃だの剣だの「武器」ではなく、「戦場」即ちその場なのです。ちょっと意味が分かりませんね。


オタサーの姫差別用語という意見があります。この話をもとに、説明します。


オタサーの姫という言葉を聞いて、あまりいいイメージを持つ人は少ないでしょう。「姫」という表現は、「美しい女性」としての意味ではなく、「一人であるがゆえにライバルがおらず、必然的に男の視線を集められる」という皮肉的な意味が込められているためです。この時、我々は「オタサーの姫」という言葉を”用いた”わけではありません。


もともと「オタサーの姫」という言葉は、意味を持っておらず、空中をふらふらとさまよっているだけの状況なのです。しかし、「お高くまとまってる」「大して可愛くもないのに」といった人々のイメージを固定化するために、その当人に、さまよっていたものがぴったりくっついてしまったのです。だってそうでしょう。「オタク」も「姫」も、本来はその性質を表すだけのものであって、誰に張り付くのかが違うだけでその言葉自体の意味合いは変わってしまうからです。言葉自体にもとからの意味は決まってなどいないのです。


なんとなく分かってもらえたでしょうか?


すなわち、彼女を「オタサーの姫」とさせているその所以は、



オタサーの姫」という言葉ではなく、「オタクサークルに属している」というその彼女自身の属性



なのです。



これらの話は、ラベリングとかの話にもつながってきて、そうした話は過去にこの記事で大きく取り上げました。よかったら。
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名前を付けるのは、怖い


ここまで説明をしたところで、話を戻しましょう。


辛い体験を手繰り手繰り話す人の話を聞いている場面をまた想像してください。まず、この人に対し、何かしらの言葉を反響させることが無意味であるということをある程度理解してほしいのです。


辛い経験であればあるほど、それを話すのには体力がいりますし、なかなかにまとまりません。しかしそのまとまらない原因は、あなたの思考力が足りないからではないということを第一に理解してください。それほど複雑な場に、あなたが立っているからです。


複雑であるがために、自分の気持ちに名前がついてしまうのは当然怖いです。「オタサーの姫」と同じようなことが自分の気持ちに起こってしまうのは、それは感情の死を意味すると僕は考えます。名前が付いた瞬間にその範疇を出ないためです。


だから、この怖いという感情を互いに確認できる場を、まずは作らないといけません。


誰であろうとも、バランスボールの上で微動だにせずにどっしり立つことはできません。そんな人に対し、しっかり地に立った人の言葉は基本的に響きません。互いの目線だって、確実にぶれますよね。


だから、


聞いてあげるあなたも、バランスボールの上に立つ


ことです。これは、共につらい経験をあなたも一緒にしろとかいうことではなくて、そういう不安定な場にいることを肯定し、相手の価値観に立つ、ということを意味します。バランスボールの上に立てば、相手に向かって言葉なんてポンポンとは出てきません。あなたも返す言葉を慎重に選ばないといけない状況に立たされるからです。


ゆっくりゆっくり、バランスを取ろうとしているのです。このことをまずは理解してください。不動の地に立った価値観を、バランスボールの上にいる人間に、むやみに投げないでください。


あなたが大事にすべき人。

ですから、あなたに向かって求めてもいないアドバイスをしてくる人間は、基本的に関わらなくてよいと僕は思います。特に「あなたのためを思って」なんて言ってくる人は要注意です。



「言葉」を作ろうとしてくる人間ではなく、「場」を作ろうとしてくれる人間を、心から大事にしてください。


「場を作る」とは、その人の価値観に立って話を聞くことを指します。そしてその場において、言葉というものは必要ありません。というか、あまり役には立たないはずです。役に立ってはたまりません。もっともっとみんなの感情は一言では表せないほどに複雑だし、だからこそ面白いし美しいのです。



自死遺族の会でボランティア活動をしていても、このことはやはり一番に感じることです。みんなの気持ちを引き出すのは確実に、その場の許容感です。上手くは言えませんが。


もっともっと、相手の立っている場を大事に大事にできる人間に、僕もならないといけません。


最後に。


最後に、今までの話を踏まえてタイトルに答えるのであれば、辛い気持ちを直ちに論理的に話せるようになることは必要ではないと思います。論理的に話せないなら話せないほど、複雑で美しいと言っても過言ではないと思います。


しかし、その状況に甘んじるのではあまり意味がありません。


その気持ちを吐き出せる場を見つけに行くでもいいし、とにかくその感情を考え抜くことは、その人に与えられた当然のタスクであると思います。みんなこのタスクは、周りには伝えずに一人向き合い消化しようとしているものだと思います。


そのあなたにしかできないタスクが、いつか何かに活きることが必ずあると思います。


僕は、論理的に説明できるかと言ったらイマイチ怪しいですが、しかしある程度、受容できている段階にいます。ちょくちょく自分の負の感情はこのブログにも出てきましたが、しかしその感情を乗り越えるためのタスクも、自分には存在しています。







おわり。